Vol.53 続 ブルトマン著作集 11 神学論文集1(新教出版社)を読んで


 前回の更新(Vol.52)からの続きで、ブルトマン著作集 11神学論文集1(新教出版社)に収録されている2つの論文「神を語ることは何を意味するのか」(1925年)と「『自然神学』の問題」(未公刊)を読んで、それらに対する僕なりのまとめである。
 はじめに「神を語ることは何を意味するのか」について。

 神に関して語っても意味がないのは、愛に関して語ることに意味がないのと同じである。実際、愛に関する発言がそれ自体愛する行為になるのでなければ、愛に関しても語ることはできない。人は神を語ろうとすれば、自己自身を語らざるを得ない。
 神をいつ語るのかは、我々がそうしなければならない時にであり、その時(必然)とは、自由な行為で、服従となる。なぜなら、必然は神から語られるものであり、我々には委ねられておらず、必然が現実となるかについても、我々は信じるしかない(信仰)。
 信仰は神の言葉と行為への応答であり、我々(自分)に向けられた神の言葉と行為を語ることだけが、神を語ることになる。

 「神を語ることは何を意味するのか」に関しては、自分なりに、浅はかながらも、理解できたのではないかという希望を持っている。
 ブルトマンは1884年生まれだから、41歳の時に発表した論文である。
 

 次に「『自然神学』の問題」について。
 その内容は大きく3つに分かれており、1については、以下のとおり。

 キリスト教の宣教が人間に出会って理解されうるという事実は、人間がそれについての「前理解」を持っているからで、理解するものとされるものは、はじめから関係し合っているような「生連関」を前提とする。

 2と3については、諸々の事情により、省略する。1と同様、ちゃんと読み込んだという証拠として、3で見つけた誤植を(347ページ)。
 

 昨日から『エレミヤ書』を読み始めたことで、残りの論文「カール・バルト著『死人の復活』」については、もう少し先になるだろう。

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