Vol.101 ブルトマンにおける『聖書』からの引用


 101回目の更新ということで、今回からまた生まれ変わったようなつもりで書きたい。そう思って、ふさわしい話題を探そうとしたら、ごく身近にあったことに気が付いた。
 

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(『コリント人への第二の手紙』第5章第17節)

 上に挙げた箇所は、ブルトマンを読んでいると、盛んに引用されている。それだけ、大事な箇所なのであろう。そうした箇所は、他にもいくつかあり、以下に列挙して、僕の備忘録としたい。

 『ヨハネによる福音書』
 五章
 二四 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである(『ヨハネの第一の手紙』三章一四も同様)。
 八章
 一二 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
 一六章
 三三 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

 『コリント人への第一の手紙』
 七章
 二九 兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、
 三〇 泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、
 三一 世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。

 『ガラテヤ人への手紙』
 四章
 四 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。

 『ピリピ人への手紙』
 三章
 一二 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
 一三 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、

 上記の他にも、まだたくさん引用されている箇所(たとえば『ローマ人への手紙』において、一章、三章、一〇章三、四は「義」について。七章四~七、一〇~一六は「律法」について)がある。けれども、とにもかくにも、上に挙げた箇所は、『ブルトマン著作集』を読んでいると、とりわけよく出てくるのだ。

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