Vol.136 『コリント人への第一の手紙』を読んで、とブルトマンの釈義


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 『コリント人への第一の手紙』は25日に読んだ。といっても、その内容に関しては、ブルトマンの著作に関連して、ところどころ既に目を通している。
 とりわけ以下の聖句は何度となく読んで、このブログでも既に取り上げている。

 七章
 二九 兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、
 三〇 泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、
 三一 世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。
 

 上に引いた聖句の箇所は新共同訳の小見出しで、「未婚の人とやもめ」とあり、まさに僕のことでもある。
 ブルトマンに話を戻すと、彼は『コリント人への第一の手紙』から多数の聖句を取り上げて、釈義している。
 例を挙げると、

 三章
 二二 パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。
 二三 そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。

 六章
 一二 すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。

 七章
 二〇 各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。

 一三章
 一二 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

 一四章
 二六 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。

 一五章
 二四 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
 二五 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
 二六 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。
 二七 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。

 最後に僕が個人的に好きな聖句を一つ挙げておきたい。

 一〇章
 一三 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

Vol.135 バザーのお手伝いをしました


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 前々回の更新(Vol.133)で書いたとおり、昨日はバザーのお手伝いをしました。
 下の写真がバザーの会場(室内)で、開始前の一コマです。
 

 前日には冷凍うどんを茹でて、調理する担当を仰せつかっていたのですが、実際にはエスニックチキンの販売を担当することに。
 下の写真がそれで、試食して、味見しましたが、とても美味しかったです。
 

 エプロンを掛けた(身に付けた)のは実に久しぶりで、こうして普段はしない(できない)ことをするのが、このブログを始めた際の趣旨である「Stay The Young」なんだ、と。
 販売の合間には、他の売り場を見て回ったり、同じく販売している人たちから、素敵なお話を聞いたりと、実に楽しく、有意義な一日でした。

Vol.134 『マルコによる福音書』を読んで


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 既にマタイ、ルカ、ヨハネの各福音書を読んでいることから、最古のそれは目新しさというか、新鮮さが少なかった。
 最も印象的な箇所はやはりイエスの最期であった。

 一五章
 三四 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 三七 イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
 三八 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
 三九 イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
 

 『マルコによる福音書』については、ブルトマンの釈義に沿って、記しておきたい。

 一章
 一五 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

 一章一五は、この世の時はその期限が来ているというイエスの説教の要約で、悔い改めよという呼び声。

 二章
 一五 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。
 一六 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
 一七 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 二章一五~一七は、はじめにイエスの言葉だけが存在し、場面は後からの創作で、ブルトマンが唱えるアポフテグマの典型例。

 八章
 二七 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
 一〇章
 五二 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。

 八章二七~一〇章五二は、伝承。

 一二章
 二五 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

 一二章二五は、万物はまったく別様になるということ。

 こうして僕はようやく四つの福音書に目を通したことになる。読む順番に関しても、やはり僕らしかった。一般的にはマルコかマタイ、もしくはヨハネから読み始めるのだろうが、そうはならなかったから。
 僕は福音書の素晴らしさをこれから徐々に実感していくことだろう。

Vol.133 清掃奉仕とバザーの準備


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 今日の午前中は某所にて、清掃奉仕(4回目)と明日のバザーの準備のお手伝いをしました。
 下の写真がそれで、こんにゃく、卵、ちくわはバザーで販売するおでんの具です。
 


 明日のバザーでは冷凍うどんを茹でて、調理する担当を仰せつかりました。

 以下は余談。
 今回の更新から姉妹ブログである「東海・旅の足跡 2」と同様、前文の挨拶を書き記すことにしました。

Vol.132 『テモテへの第一の手紙』を読んで


 前回の更新(Vol.131)からの続きで、『テモテへの第二の手紙』を読んだ翌日(23日)、『テモテへの第一の手紙』を読んだ。
 僕が『テモテへの第一の手紙』を読んで、最も心に残った聖句は六章七の

  「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。」

 である。
 

 いまさら誰の目にも当たり前のことであるが、常日頃、誰もが忘れていることでもある。そして、僕はその覚悟ができている。だから、今、そういう生き方をしている。これは僕の誇りでもある。また、神への信頼でもある。

 以下は余談。
 今日の午後、読んだ本はJam著『多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。』(サンクチュアリ出版)と鉄人社編『心がラクになる後ろ向き名言100選』(鉄人文庫)の2冊。『多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。』は追い出すという発想が参考になりました。『心がラクになる後ろ向き名言100選』は読んで、心が少しラクになりました。
 

Vol.131 『テモテへの第二の手紙』を読んで


 テモテへの手紙は第一の手紙と第二の手紙があり、例によって、僕らしいというか、第二の手紙から読んだ。読んだのは今月22日。
 手紙の中に「キリスト・イエス」という表現が何度となく出てくる。そこが手紙の中で、重要な聖句なのかもしれない。つまり、筆者であるパウロ、もしくはその弟子たちが最も伝えたかったことではないのか。

 一章
 一〇 そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。

 二章
 一 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。

 三章
 一二 いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。

 四章
 一 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
 

 上を読むと、筆者が「キリスト・イエス」の名において、テモテを励ましていることをひしひしと肌で感じることができる。すなわち、僕も励まされているのだということを。

Vol.130 『エゼキエル書』を読んで


 『エゼキエル書』は長文であることから、今月10日の夜に準備をして、11日に途中、眠い目をこすりながらも、一気に読破した。
 内容は前半(一~三二章)と後半(三三~四八章)に分けられるという。よって、2回に分けて更新する予定だったが、先にも書いたように前夜に準備して、一気に読破したことから、止めておく。今回、こうした形(下準備)で『聖書』を読んだのは初めてであった。
 『エゼキエル書』には「この母にしてこの娘あり」「父たちが、酢いぶどうを食べたので」といった格言が出てくる。
 ブルトマンの著作では、

 一一章
 一九 そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。
 

 三六章
 二六 わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
 

 の2箇所が取り上げられている。
 上記の2箇所は似たような内容であることに気がついたとき、『エゼキエル書』を、ひいては『旧約聖書』をこういうふうに読めばいいのだ、とブルトマンから教えられたような気がした。
 僕の理解の範囲において、ブルトマンによれば、上記の2箇所は「新しく生まれる」ことを示唆している。すると、ただちに僕が頭に思い浮かべたのは『ヨハネによる福音書』の三章六~七節に出てくるイエスの言葉。

 三章
 六 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
 七 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。

 僕の中で、『旧約聖書』と『新約聖書』がしっかりと繋がった瞬間であった。ハレルヤ。

 以下は余談。
 今日の午後は江南市にあるフラワーパーク江南へ行き、コスモスを見てきました。
 


Vol.129 『オバデヤ書』『アモス書』『ホセア書』『ゼカリヤ書』を読んで


 いわゆる十二小預言書の内、『オバデヤ書』は今月3日に読んだ。『アモス書』と『ホセア書』と『ゼカリヤ書』は4日に読んだ。
 四書の内、ブルトマンの指摘があるのは、『ホセア書』の一章一〇節だけとなっていた。
 

 『ホセア書』を読んでいたら、一四章四節から読んでいて、印象が変わった。
 僕の心に残った箇所は『ゼカリヤ書』五章の一から三節。

 一 わたしがまた目をあげて見ていると、飛んでいる巻物を見た。
 二 彼がわたしに「何を見るか」と言ったので、「飛んでいる巻物を見ます。その長さは二十キュビト、その幅は十キュビトです」と答えた。
 三 すると彼はまた、わたしに言った、「これは全地のおもてに出て行く、のろいの言葉です。すべて盗む者はこれに照して除き去られ、すべて偽り誓う者は、これに照して除き去られるのです。
 

 こうして小預言書を立て続けに読んでいたら、その素晴らしさというか、持ち味みたいなものを少し感じることができました。

 以下は余談。
 今日の午後はメナード美術館へ行き、「はなかたち ひとかたち 追悼 島田章三」展を見てきました。
 

Vol.128 名古屋まつり2018の見物


 前々回の更新(Vol.126)と関連して、昨日は名古屋まつり2018を見物しました。
 歩くのにはちょうど良い気候だったことから、ちょっとした景品がもらえるということで、昼休みにスタンプラリーに参加。
 


 午後からは某所にて、聖書通読の会に出席(3回目)した後、来週行われるバザー準備のお手伝いでした。

Vol.127 『ヨブ記』を読んで


 『ヨブ記』はブルトマンによれば、「正しい者の苦難の問題」とあったことから、読む前から大いに期待していた。何らかの深い教訓や励まし等が得られるものと思い、今月4日に読んだが、僕の心にはあまり響かなかった。
 とは言っても、そこはさすが『聖書』だけあって、一筋縄ではいかない。
 『旧約聖書』には、詩の形式で表現されることが多いが、どれも抽象的過ぎて、なかなか実感できないけれど、三章二節から始まるそれには圧倒された。

 二 「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。
 一一 なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。腹から出たとき息が絶えなかったのか。
 一三 そうしなかったならば、わたしは伏して休み、眠ったであろう。そうすればわたしは安んじており、
 二〇 なにゆえ、悩む者に光を賜い、心の苦しむ者に命を賜わったのか。

 『ヨブ記』を読んでいたら、四〇章から印象が変わった。
 

 『ヨブ記』に関しては、ブルトマンに教えられることが多かったことから、それを記しておきたい。
 「人間の問いも訴えも、神の智恵と全能の前には沈黙しなければならないと告白する。敬虔な忍従」。
 「咎なくして、悩む者の謎がテーマである『ヨブ記』においては、悩める者の訴えは敬虔な沈黙で終わる」。

Vol.126 名古屋城本丸御殿の見物と清掃奉仕


 今日の午前中は名古屋城へ行き、本丸御殿を見物してきました。
 

 本丸御殿の見物は今回が2回目で、いつだったか、以前にも足を運んだことがあるのですが、はっきりとした日付が分からずじまい。
 下の写真が本丸御殿の玄関に展示されていた竹林豹虎図です。
 

 下の写真が表書院の上段之間です。
 

 下の写真が上洛殿の一之間・上段之間です。
 

 朝一番に足を運んだことで、比較的スムーズに見物できました。というのも、見終えて、外へ出ると、入場待ちの凄い行列になっていたから。
 次に場所を移動して、先月から新しく始めた清掃奉仕(ボランティア)でした。
 

Vol.125 『イザヤ書』を読んで


 『イザヤ書』を15日は一三章まで、16日夜は五二章まで、17日朝は六六章までと3回に分けて、読んだ。
 『イザヤ書』は『新約聖書』に多数引用されているのはもちろんのこと、ブルトマンでもそうした指摘がされている。さらにスタディ版でも取り上げられている箇所がある。

 一〇章
 二二 あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びはすでに定まり、義であふれている。

 六一章
 一 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
 

 『イザヤ書』のトリビアとして、
  二章四節はニューヨークにある国連本部の壁に刻まれている。
  一二章三節はフォークダンスの楽曲で使われる「マイム・マイム」の由来。
  五三章は「僕(しもべ)の歌」と呼ばれている。

 『イザヤ書』を大きくとらえた場合、四〇章を境として、確かに文体等に違った印象を受けた。また六〇章辺りからも少し印象が違って、明るく感じた。
 僕が『イザヤ書』を読んで、個人的に気になった箇所は次の2つ。

 三八章
 五 「行って、ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます、「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。
 六 わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」。
 七 主が約束されたことを行われることについては、あなたは主からこのしるしを得る。
 八 見よ、わたしはアハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう』」。すると日時計の上に進んだ日影が十度退いた。

 四四章
 一三 木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。
 一四 彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。
 一五 こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。
 一六 その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。
 一七 そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。

Vol.124 『申命記』を読んで


 今月4日に読んだ。
 備忘録として、重要な聖句ではなく、僕の心に響いた箇所を取り上げておくことにする。

 四章
 三二 試みにあなたの前に過ぎ去った日について問え。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの端から、かの端までに、かつてこのように大いなる事があったであろうか。このようなことを聞いたことがあったであろうか。
 三九 それゆえ、あなたは、きょう知って、心にとめなければならない。上は天、下は地において、主こそ神にいまし、ほかに神のないことを。

 八章
 三 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。

 一二章
 二〇 あなたの神、主が約束されたように、あなたの領域を広くされるとき、あなたは肉を食べたいと願って、『わたしは肉を食べよう』と言うであろう。その時、あなたはほしいだけ肉を食べることができる。

 一四章
 三 忌むべき物は、どんなものでも食べてはならない。
 四 あなたがたの食べることができる獣は次のとおりである。すなわち牛、羊、やぎ、
 九 水の中にいるすべての物のうち、次のものは食べることができる。すなわち、すべて、ひれと、うろこのあるものは、食べることができる。
 一一 すべて清い鳥は食べることができる。
 

 二〇章
 一九 長く町を攻め囲んで、それを取ろうとする時でも、おのをふるって、そこの木を切り枯らしてはならない。それはあなたの食となるものだから、切り倒してはならない。あなたは田野の木までも、人のように攻めなければならないであろうか。

 二八章
 六六 あなたの命は細い糸にかかっているようになり、夜昼恐れおののいて、その命もおぼつかなく思うであろう。
 六七 あなたが心にいだく恐れと、目に見るものによって、朝には『ああ夕であればよいのに』と言い、夕には『ああ朝であればよいのに』と言うであろう。

 二九章
 一九 そのような人はこの誓いの言葉を聞いても、心に自分を祝福して『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』と言うであろう。そうすれば潤った者も、かわいた者もひとしく滅びるであろう。
 二〇 主はそのような人をゆるすことを好まれない。かえって主はその人に怒りとねたみを発し、この書物にしるされたすべてののろいを彼の上に加え、主はついにその人の名を天の下から消し去られるであろう。

 三〇章
 一一 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。

 三一章
 二一 こうして多くの災と悩みとが彼らに臨む時、この歌は彼らに対して、あかしとなるであろう。(それはこの歌が彼らの子孫の口にあって、彼らはそれを忘れないからである。)わたしが誓った地に彼らを導き入れる前、すでに彼らが思いはかっている事をわたしは知っているからである」。

 三二章
 四七 この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」。

Vol.123 『出エジプト記』第一九~四〇章を読んで


 前回の更新(Vol.122)からの続き。

 一九章
 一 イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。
 四 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
 五 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
 六 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

 二〇章
 二 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である
 三 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
 四  あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
 五 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
 六 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
 七  あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
 八 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
 九 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
 一〇 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
 一一 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
 一二 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
 一三 あなたは殺してはならない。
 一四 あなたは姦淫してはならない。
 一五 あなたは盗んではならない。
 一六 あなたは隣人について、偽証してはならない。
 一七 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。
 

 二一章
 二四 目には目、歯には歯、手には手、足には足、

 三一章
 一八 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。

Vol.122 『出エジプト記』第一~一八章を読んで


 先月23日に読んだ。
 備忘録として、押さえておきたい箇所を2回に分けて、記しておく。

 三章
 四 主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。
 五 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。
 八 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。
 一三 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
 一四 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 一五 神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。

 一二章
 一三 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
 一四 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。

 一四章
 一六 あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。
 一七 わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。
 二一 モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。
 二二 イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。
 二六 そのとき主はモーセに言われた、「あなたの手を海の上にさし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい」。
 二七 モーセが手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプトびとはこれにむかって逃げたが、主はエジプトびとを海の中に投げ込まれた。

 一六章
 一五 イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。
 三一 イスラエルの家はその物の名をマナと呼んだ。それはコエンドロの実のようで白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。
 

 一七章
 一一 モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。
 一二 しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。

 一八章
 一 さて、モーセのしゅうと、ミデアンの祭司エテロは、神がモーセと、み民イスラエルとにされたすべての事、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた。
 一八 あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。
 一九 今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。
 二一 また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。

 以下は余談。
 今日の午後は長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会へ顔を出しました。
 

 お寺の内陣と外陣を例に挙げて、「阿弥陀仏の本願」の講話でした。

Vol.121 『コリント人への第二の手紙』六章と『ピリピ人への手紙』三章


 今の僕が目指す三か条は、
  一、楽しいことを考える(行動する)。
  二、歯を食いしばって生きる。
  三、自分が変わる(を変える)。
 であり、以下の聖句が、パウロのメッセージが呼応する。

 『コリント人への第二の手紙』
 六章
 九 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
 一〇 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。

 『ピリピ人への手紙』
 三章
 一一 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
 一二 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
 一三 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
 一四 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
 

 そして、少し前の更新(Vol.100)でも書いたように村田和人さんの「Paradise Road」を胸に秘めて、励ましとする。

Vol.120 久しぶりの手話


 今日は名古屋市の栄地区へ行きました。
 下の写真は栄にある南大津通の歩行者天国で、自転車だったことから、降りて押して歩くことに。
 


 午後からは簡単な手話の勉強。手話を学ぶのは大学生以来で、「こんにちは」といった挨拶以外、今となっては何も覚えていなかった。
 とりあえず、今日は自分の名前の紹介を手話で出来るようになりました。
 後になって気がついたのだが、普段と違うことをすれば、脳が活性化されて、健康はもちろんのこと、精神的にも良いかもしれない。

Vol.119 『士師記』を読んで


 先月20日に『士師記』を読んだ。

 六章
 一一 さて主の使がきて、アビエゼルびとヨアシに属するオフラにあるテレビンの木の下に座した。時にヨアシの子ギデオンはミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていたが、
 一二 主の使は彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。
 一五 ギデオンは主に言った、「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです」。

 上は『士師記』を読むきっかけとなった箇所で、下は最も興味深く読んだ箇所です。

 一六章
 一六 女は毎日その言葉をもって彼に迫り促したので、彼の魂は死ぬばかりに苦しんだ。
 一七 彼はついにその心をことごとく打ち明けて女に言った、「わたしの頭にはかみそりを当てたことがありません。わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう」。
 

Vol.118 荒子観音寺の山門(仁王門)の格子


 今日は長谷川公茂先生に随行して、名古屋市中川区にある荒子観音寺へ行き、山門(仁王門)の格子を新しくする作業を見学しました。
 下の写真は今までの古い格子を取り外した際に、仁王像の阿像を撮影する長谷川公茂先生です。
 

 下の写真は山門(仁王門)の格子を新しくする作業の様子です。
 


 作業は午前中に無事に終了したことから、長谷川先生と一緒に昼食を食べて、楽しい円空談義で、実に幸せな時間を過ごしました。
 

Vol.117 『コロサイ人への手紙』と『エペソ人への手紙』を読んで


 『コロサイ人への手紙』は今月8日に、『エペソ人への手紙』は9日に読んだ。
 『コロサイ人への手紙』を読んだ際、今までにも読んだことのあるような感覚になった。
 たとえば、一章一〇の「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである」を読んだ際には、『コリント人への第二の手紙』二章一四の「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」を頭に浮かべたりした。
 また、『コロサイ人への手紙』を読んだ後、『エペソ人への手紙』を読んだのだが、二つの手紙がどこか似ているような印象を受けた。それは僕が『ブルトマン著作集』5巻(第五八章)の影響を受けていることもある。
 『コロサイ人への手紙』に話を戻すと、第一章一五節から二〇節はキリスト讃歌であり、さらに「キリストの宇宙的位置を記述している」とブルトマンから教わった。「宇宙的諸力はそこに起源と存在の根拠を持つ」という。宇宙全体の構造がキリストの体と理解され、その頭がキリストである、と。

 三章
 一 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
 二 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
 三 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
 四 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

 次に『エペソ人への手紙』について。
 『エペソ人への手紙』で大事な聖句は以下の箇所であろうと思う。
 
 二章
 八 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

 四章
 四 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
 五 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
 

 二三 心の深みまで新たにされて、
 二四 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

 僕が素敵な聖句だな、と感じたのは五章一九の「詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい」である。
 また、最も励まされた聖句は六章一三と一四節の「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ」であり、僕は読んでいて、胸の奥に熱いものを感じた。

Vol.116 青野太潮著『パウロ 十字架の使徒』を読んで


 昨日から今日にかけて、青野太潮著『パウロ 十字架の使徒』(岩波新書)を読みました。
 理由はパウロの人となりについて、もっと深く知りたかったから。
 以前の更新(Vol.106)にも書きましたが、パウロは何と激しい人であるか、というのが僕の印象です。
 

 本書では、パウロの生い立ちから始まり、思想に至るまで述べられていました。しかしながら、僕が最も知りたかったパウロの人柄というか、人間味については、直接的には触れられていませんでした(むしろ、それで当然なのですが)。
 本書は大変勉強になったことから、素晴らしい内容でした。その一方で、読んでいて、肝心なパウロの声は聞こえなかった、というのが正直な感想です。

Vol.115 『ヘブル人への手紙』を読んで


 昨日と今日、つまり6日(土)と7日(日)に『ヘブル人への手紙』を読んだ。とりわけ一一章と一二章は僕の心を打つ言葉が並んでいた。

 一一章
 一三 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
 一四 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
 一五 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
 一六 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

 僕もまた「旅人であり寄留者」であることから、「天にあるふるさと」へ帰ることを望んでいる。

 一二章
 一 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
 二 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

 ここでもまた、『ピリピ人への手紙』に出てくる「目標を目ざして走り(三章一四節)」と同様、「走りぬこうではないか(走ろうではないか)」という呼び掛けが聞こえる。

 一二章
 一一 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
 一二 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

 上の聖句(一一節、一二節)はまさに今、悩み苦しんで、深い悲しみにあり、辛い毎日を送っている僕に向かって、投げかけられている言葉のように聞こえた。
 

 以下は余談。
 上の文章で「聞こえる」、「聞こえた」と表現している。その理由は、主の声が聞きたくて、『聖書』を読んでいるからです。

Vol.114 『讃美歌21』516番「主の招く声が」(「Dear Lord and Father of Mankind」)


 『讃美歌21』に収録されている歌は数あれど、僕が心の底から素晴らしいなと感じて、歌ったことのある歌は今のところ516番の「主の招く声が」だけだ。

 1 主の招く声が 聞こえてくる。
   日ごとにやしない、新しく生かす、
   私たちを 招く声が。

 2 呼ばれるこの身は 力も無く、
   この世の重荷と わずらいの中で
   くびきを負い、あえいでいる。

 3 み声に応えた 聖徒たちの
   歩みに従い、私たちもまた
   主の名を身に 帯びて進もう。

 4 新しい課題も 日々のわざも
   十字架を負われた 主が与えられた
   つとめとして 励んでゆこう。

 5 主の招く声が 聞こえてくる。
   こんなに小さな 私たちさえも
   みわざのため 用いられる。

 歌詞も素晴らしいけれど、曲を耳にしているだけで、どこか慰められる。そして、励まされる。そんな気持になるのだ。
 

 聴いたことがない、という人のために書いておくと、YouTubeで、「 Dear Lord and Father of Mankind 」と検索してみてください。

 以下は余談。
 僕が大好きな村田和人さんの歌も耳にしていると、励まされているようで、元気になります。

Vol.113 『ユダの手紙』と『ミカ書』を読んで


 前回の更新(Vol.112)と関連して、昨日(1日)、『テサロニケ人への第一の手紙』と『ヨエル書』を読んだ後、『ユダの手紙』を読んだ。
 『ユダの手紙』で最も重要な聖句はどうやら二一節らしい。素人考えだから、無論、反対意見もあると思うけれど。

 二一 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 また、僕としては、ブルトマンが触れていることから、結びの言葉である二四、二五節の頌栄についても言及しておきたい。
 

 以下は余談。
 『ミカ書』は過日(先月23日)に読んで、書きそびれていた。忘れてはならないポイントとして、四章が『イザヤ書』と、五章が『マタイによる福音書』に関連するということ。

Vol.112 『テサロニケ人への第一の手紙』と『ヨエル書』を読んで


 8月中旬に『テサロニケ人への第二の手紙』を読んでから(Vol.81)、ずいぶん日が経ってしまった。今日読んだ『テサロニケ人への第一の手紙』において、僕の心に響いた箇所を。

 二章
 七 むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。
 八 このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。

 四章
 一 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。

 四章一節の内容は『ピリピ人への手紙』の中に出てくる僕の好きな聖句を思い出した。その聖句とは三章一四節の「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。

 一七 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

 五章
 一〇 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。
 一六 いつも喜んでいなさい。
 一七 絶えず祈りなさい。
 一八 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

 一六から一八まで、畳みかけるような聖句の連続によって、まるでパウロの声が聞こえるようだ。
 

 五章二一節の「すべてのものを識別して、良いものを守り」はラインホールド・ニーバーの「Serenity Prayer (平静の祈り)」に通じるところがあるように感じた。
 ご存じないという方のために、下記に少しだけ引用すると、

 God,give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed,(以下略)。

 ところで、四章一五節の「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう」について、ブルトマンは「パウロの期待は満たされなかった」と書いている。ブルトマンが『テサロニケ人への第一の手紙』にほとんど言及していないことについては、いかに考えるべきであろうか、という疑問が僕の中で残ったままだ。
 また、今日は『テサロニケ人への第一の手紙』の他に『ヨエル書』も読んだ。以前に手を付けていたのだが、冒頭に「いなご」の襲来が出てくることから、今まで読む気が起きなかったのだ。
 さらに『ユダの手紙』も読んだのだが、それは別の機会に。

 以下は余談。
 前回の更新(Vol.111)にて、「オアシス21の銀河の広場にあるベンチに腰掛けて、『聖書』を読んでいた」と書いたが、それは『雅歌』であった。