Vol.162 続 神谷美恵子著作集6『存在の重み エッセイ集2』(みすず書房)を読んで


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 前回の更新(Vol.161)からの続きで、神谷美恵子著作集6『存在の重み エッセイ集2』(みすず書房)を読みました。
 僕が本書を読んでいて、ハッとさせられた箇所を備忘録として。

 「人は何かにつまづいて、はじめてその障害物の所在を知る(34ページ)」。
 「もちろん、人間の心はたえず生きがいを感じるようにはできていないので、一生のうち、何べんか、ああ、生きていてよかったなァ、と感じられる瞬間があればありがたいとすべきでしょう(38ページ)」。
 「苦しみの中でたったひとり、と思いこむのはただ人間が近視眼であるためにちがいない(84ページ)」。
 「だれかとの出会いや何かの書物を通して、自分にぴったりのなぐさめの言葉を見出せたひとは幸いである(205ページ)」。
 「しかし、どんな人間であろうとも自ら望んで生まれてきたわけではない。生まれさせられ、生かされて来たのだ(220ページ)」。

 下の写真は「『ポリテイア(国家)』今昔」と題した文章の中で、神谷美恵子が身内に宛てた私信を引用した箇所です。
 

 「本業は精神科医(222ページ)」である神谷美恵子の書いた文章には、「生きがい」、「愛来園(療養所)」、「らい病」、「患者さん」、「精神医学(精神医療)」といった、どちらかと言えば、暗いイメージの言葉が多数、散見される。しかしながら、手紙の文末には、「今したいことは誰かと一緒にワハハと笑うこと。以上」と記されており、神谷美恵子の人柄に触れたような気がした。

 以下は余談。
 これもまた前回の更新(Vol.161)からの続きで、今日は神谷美恵子が翻訳したというマルクス・アウレリウス著『自省録』(岩波書店)に目を通しました。
 


Vol.161 神谷美恵子著作集6『存在の重み エッセイ集2』(みすず書房)を読んで


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 以前の更新(Vol.155)でも書いたように、神谷美恵子の著作集6『存在の重み エッセイ集2』(みすず書房)を今夕、読み終えました。
 

 『生きがいについて』と同様、期待を裏切らない素晴らしい内容でした。
 読後、最も印象に残ったのは、「女性の生き方について」で、副題に「女子高生のために(講演)」とあり、神谷美恵子が語る内容もさることながら、彼女の講演を聞いた女子高生たちを羨ましく思いました。
 

 「生きがいの基礎」の中で、神谷美恵子が翻訳したというマルクス・アウレリウスの『自省録』が出てきたことから、次はそれを読むことに。

 以下は余談。
 今日の午前中は荒子観音寺へ行き、円空の研究は「荒子に始まり、荒子に終わる」を肌で実感しました(写真は許可を得て撮影しており、転載・再配布等を固く禁止します)。
 

Vol.160 円空上人の心を伝える会 第2集『円空の微笑仏(一)』


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 表題のとおり、円空上人の心を伝える会から2冊目となる『円空の微笑仏(一)』が上梓されます。
 下の写真が表紙です。
 

 下の写真は長谷川公茂先生による巻頭言で、「円空の微笑仏」に対する解説文です。
 

 『円空の微笑仏(一)』は来月以降、以下の場所で販売を予定しています(定価1000円)。

 すいとぴあ江南
  愛知県江南市草井町西200

 関市洞戸円空記念館
  岐阜県関市洞戸高賀1212

 中観音堂
  岐阜県羽島市上中町中526

 会員制・発行部数限定の為、一般書店では販売していません。

Vol.159 一宮円空会の社会科見学にて音楽寺の参拝


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 今日の午前中は江南市にある音楽寺へ行き、長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会の社会科見学に途中合流しました。
 下の写真は音楽寺の円空仏を展示している資料館です。
 

 音楽寺へ足を運んだのは、6月上旬に行われたあじさい祭りの開会式と8月下旬に行われたすいとぴあ江南主催の長谷川公茂先生の特別講演以来で、今年は計3回となりそうです。
 文末になってしまいましたが、村久野歴史資料館運営委員会の皆様には、大変お世話になりました。この場を借りて、お礼申し上げます。

Vol.158 旧約聖書続編『マカバイ記 二』を読んで


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 先週、旧約聖書続編の『マカバイ記 二』を読みました。
 

 例によって、僕の心に響いた箇所を引いて、備忘録としたい。

 二章
 32 前置きはこれぐらいにして話を始めることにしよう。いつまでも物語の入り口にとどまって、本題をおろそかにするのは愚かなことである。
 三章
 16 大祭司の姿は見る者の心を痛めた。そのふるまいや表情には、内面の苦悩が表れていた。 17彼は全身恐怖に包まれ、体が小刻みに震えていた。彼を見るすべての人に、その心の苦悶が伝わってきた。
 五章
 2-3 折から、全市におよそ四十日にわたり、金糸の衣装をまとい、槍と抜き身の剣で完全武装した騎兵隊が空中を駆け巡るのが見えるという出来事が起きた。すなわち、隊を整えた騎兵がおのおの攻撃や突撃をし、盾が揺れ、槍は林立し、投げ槍が飛び、金の飾りやさまざまな胸当てがきらめいた。
 27 そのころ、マカバイとも呼ばれたユダは、十人ばかりで山地に逃げ込み、野の獣のような生活を同志と共に送っていた。彼は野草を糧として、あくまでも汚れに染まることはなかった。
 六章
 12 さて、わたしはこの書を読む者がこのような災難に気落ちせず、これらの罰は我々民族を全滅させるためのものではなく、むしろ教訓のためであると考えるよう勧めたい。
 17 以上のことを心に留めて、直ちに物語の本筋に戻ろう。
 23 これに対して、彼は筋の通った考えを持っていて、その年齢と老年のゆえの品位、更に新たに加わった立派な白髪、だれにもまさった幼いときからの生き方にふさわしく、とりわけ神が定められた聖なる律法に従って、毅然とした態度でちゅうちょすることなく、「わたしを陰府へ送り込んでくれ」と言った。
 一五章
 11 同志の一人一人を、盾や槍による守りではなく、力強い言葉が持つ励ましで武装させ、信ずるに足る夢を語って聞かせ、彼ら全員を喜ばせた。
 37 さて、ニカノルに関することのいきさつは、以上のとおりであった。この事件以来、エルサレムの都はヘブライ人によって保たれている。そこで、わたしもこの辺で筆をおこう。
 38 もしこの物語の編集が巧みで要領を得ているなら、それはわたしの喜ぶところである。しかし、つたなく平凡であるとすれば、それはわたしの力が及ばなかったのである。
 39 ちょうど、ぶどう酒だけ、あるいは水だけを飲むのは有害であるが、ぶどう酒と水を適度に混ぜると、人を心地よく楽しくする。それと同様、物語もよく編集されていると、それを聞く人の耳を楽しませる。これをもって本書の終わりとする。

 通読して、殺し殺されたといった凄惨な内容ながら、「わたし」がときどき顔を出す。この2つがアンバランスに感じられるが、そこがユニークでもあるといった印象を持った。

 以下は余談。
 今日の午前中は9月以来、某所へ足を運んで、「ウエストミンスター小教理問答」を学びました。
 

 僕はプロテスタントの教会において、教派等に関係なく、学べるものは何でも学びたいと思っている。

Vol.157 清掃奉仕と結婚式の準備のお手伝い


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 今日は土曜日ということで、例によって、清掃奉仕でした。
 

 清掃奉仕の後、先週(17日)と同様、礼拝堂にバージンロードの白い布を敷き、結婚式の準備のお手伝いをしました。
 下の写真がそれで、今の子どもたちならば、職場体験ということもあるのでしょうが、僕にとっては、貴重な経験をさせていただきました。
 

 文末になってしまいましたが、牧師様をはじめとする関係者の皆様には、この場を借りて、お礼申し上げます。

Vol.156 続 神谷美恵子著『生きがいについて』(みすず書房)を読んで


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 前回の更新(Vol.155)からの続きで、今の僕にとって、大切なことを教えてくれた箇所を挙げておきたい。

 「運命というものは、必ずしも人間にとって悪いものばかりをもたらすわけではないのだが、人間の身勝手な性質として、いいことはとかくあたりまえなこととしてうけとりがちである。たとえば、私たちが悪い病気にもならず、毎日を親しい者のなかで平和に暮らせるということ、それをひとつとってみてもまったくふしぎな『まわりあわせ』で、だだ好運というよりほかない」(本書97ページ)。

 「現在、ある目標にむかって熱中しているひとを眺めるとき、その同じ性質をもってして、どんなほかの形の人生をかたちづくりえたか、と考えてみるのは興味のつきないことである。それは、人生における偶然や運命や決断などの役割に、深く思いをひそめさせる機会でもある」(本書181ページ)。
 
 「らい園というところは、どこでも宗教がさかんで、諸宗教の礼拝堂がせまい地域内にいくつも共存しているのが特徴である。(中略)ことに病める者として、この友愛による助け合い、支え合いがどれほどの力になることか。これだけでも宗教はうしなわれた生きがいの代償として、りっぱに成立しうる」(本書226ページ)と、これに続く「積極的な生きがいとしての宗教」(本書228~232ページ)。
 

 「おわりに」と題したあとがきの冒頭、「この本をかきはじめてからいつのまにか七年もたってしまった」とあった。続く付記には「らいの存在をはじめて知った」経緯、そして「このらい園で精神科医として働くことは私の大きな生きがいの一つである」と結んでいる。7年間の時を経て、書かれたという本書もまた、著者が指摘するように「まわりあわせ」や「時間」の賜物であったのだろう。

 以下は余談。
 今日の午後は一昨日に新しく作ったメガネを受け取りに行きました。
 

Vol.155 神谷美恵子著『生きがいについて』(みすず書房)を読んで


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 数日前から、少しずつ読んで、今日、読み終えた。
 

 神谷美恵子著『生きがいについて』(みすず書房)は学生時代、何度も手に取る機会があったのに、とうとう読まずにいた。大学を卒業してからも、一度手にとってはみたが、やはり目を通さなかった。それが今になって、不思議な巡り合わせとでも言う他はない。

 「平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。」

 上に引いた語り出しで始まる本書は、今の僕にとって、大切なことを教えてくれた。とっさにどこを引用するか、迷うけれど、例えば、次のような箇所。

 「自暴自棄によって自殺、犯罪、嗜癖やデカダンスに陥るひとびとを眺めていると、そこにいくつかの共通点がある。そのなかで一ばん目立つのは我慢のなさと時間に対する不信の念である。つまり、みな短気をおこしているのである。どうせ自分なんかもうだめだ、と自分をみかぎり、事態もよくなることなどありえない、と世界と時間の可能性に対して完全にみきりをつけてしまっている。そして、耐えがたい苦悩をたち切るため、まぎらすため「短絡反応」に出るわけである。生きがいをうしなった人が、もし新しい生きがいをみいだしたいとねがうならば、その探求はまず一切をみかぎってしまいたいこの心、このはやる心を抑えることから始まらなければならない」(本書144~145ページ抜粋)。

 「この時もまた、何がいけなかったのか、ということで心は果てしなくさわぎ立つ。今さらことのおこりがすっかり究明できたところでどうなるものでもないことはわかっていても、責任の所在がわかるだけでも、心のやりばができて打撃が少しは軽くなりそうに錯覚する。そして自分がわるいとなれば自分を責め、他人がわるければ他人を、運命がわるければ運命をせめることになり、ローゼンツワイグ(S.Rosenzweig)の言う「無罰的」な境地、つまり何をも責めない心境に達するのはなかなかむつかしい」(本書154~155ページ抜粋)。

 上に引いた文章を目にした際、僕は以前に読んだことのあるラインホールド・ニーバーの「Serenity Prayer(平静の祈り)」を思い出した。
 話題を戻す。
 僕の手元には、神谷美恵子の著作集が他にもあり、6巻『存在の重み(エッセイ集2)』を読み始めた。

 以下は余談。
 下の写真は今日、拙宅のバルコニーで見つけた野鳥(モズ?)です。
 

Vol.154 『ダニエル書補遺』を読んで


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 今日は『ダニエル書補遺』の『アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌』と『スザンナ』と『ベルと竜』を読んだ。
 『ダニエル書補遺』は解説によれば、「ダニエルを中心人物とする三つの教訓的短編」とあり、例によって、備忘録を。
 初めに『アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌』について。
 

 下の写真にあるように「~よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。」との繰り返しが、一見すると早口言葉か呪文のようにも思えるけれど、賛歌とは本来こうしたものであるとも言えるような気がして、納得させられると同時に、韻を踏む言葉の美しさを感じた。
 

 39 太陽と月よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 40 天の星よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 41 すべての雨と露よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 42 もろもろの風よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 43 火と熱よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 44 寒さと暑さよ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 45 露と霜よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 48 夜と昼よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 49 光と闇よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 46 夜と昼よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。
 47 光と闇よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。

 不思議なのは、45、48、49、46の順となっているのが、なぜなのか。勉強不足で、分からない。

 次に『スザンナ』について。
 読んでいて、途中、ちょっと興味深く感じられたが、裁き方については、それほど感心しなかった。

 最後に『ベルと竜』について。
 下に引いた箇所はいかにも『聖書』の表現らしいと思い、読んでいて、『ヨナ書』を彷彿とさせた。

 36 すると主の使いは、ハバククの頭のてっぺんをとらえ、髪の毛をつかむやいなや、息の一吹きで、彼をバビロンの洞窟の前に立たせた。

 以下は長い余談で、昨日、小澤竹俊著『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』(アスコム)を読んだ。
 

 冒頭、書名に関連して、「もし今日が人生最後の日だとしたら、あなたはどう生きたいですか」という質問が出てくる。
 僕の答えは、「いつもと同じように普通に過ごすだけで、特別なことは何もしない」である。
 ベストセラーだったらしいが、本書を50数ページを読んだところで、たとえ話の内容が陳腐だったことから、中身が無いように感じて、投げ出した。
 残りのページをパラパラとめくっていたら、本文中の最後に『新約聖書』の言葉が引用されている箇所が出てきた。それならば『新約聖書』を読めばいい、ということだ。
 そして、僕はもう既に『ヨハネの黙示録』以外をすべて読んでいる。

Vol.153 『THE HOLY BIBLE』(KING JAMES VERSION)に目を通して


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 昨日の午後は楽しい食事会(愛餐会)に参加させていだたきました(少しばかりのお手伝いと)。
 

 続けて、聖書通読の会に出席(4回目)した際、Y様より貴重な『THE HOLY BIBLE』(KING JAMES VERSION)にお借りして、帰宅後、目を通しました。
 下の写真がそれで、表紙と目次です。
 


 英語で記された『聖書』を手に取ったのは、今までに数回しかなく、パラパラとページをめくった記憶があるだけだ。
 早速、僕がお気に入りの例の聖句を読んだ。

 ST.JOHN (『ヨハネによる福音書』)
 CHAPTER 3 (第三章)
 8 The wind bloweth where it listeth, and thou hearest the sound thereof, but canst not tell whence it cometh, and whither it goeth (第八節「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。」)
 

 巻末には下の写真にあるような地図も付されていた。
 

 愛餐会に参加したり、英語で記された『聖書』を読んだりして、僕が感じたことは、究極のところ、キリストの愛を信じるか、否か、であって、愛は裏切られたりすることもあるけれど、信じたくない人はそれでいいというのが、今の僕の結論である。

Vol.152 旧約聖書続編(外典)の『ユディト記』を読んで


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 昨日(17日)の朝、『ユディト記』を読んだ。
 ネブカドネツァルの力強い台詞と才色兼備なユディトの姿が最も印象に残った。

 ネブカドネツァルの力強い台詞。
 一章
  12 このためネブカドネツァルはこれら全域の住民に対して激しく憤り、王座と王国にかけて誓った。必ずや、キリキア、ダマスコ、シリア全域に対して制裁を加え、モアブの地に住むすべての者、アンモン人、ユダヤ全土に居住する者、二つの海の境界に至るエジプトの全住民を、自分の剣をもって滅ぼす、と。
 二章
 6 西方に向かい、その全域を討て。彼らは予の言葉に従わなかったからだ。
 12予は自らの命と予の王国の権勢に誓って言う。言ったことは必ず実行する。

 才色兼備なユディトの姿。
 八章
 27 主は彼らの心を試すために火のような試練を与えられましたが、わたしたちの場合も同じで、決して報復ということではなく、主に近づこうとする者を教え諭すために鞭打たれるのです。」
 一〇章
 19 彼らは、ユディトの美しさに驚き、また彼女ゆえにイスラエル人に驚いて、口々に隣の者に言った。「これほどの女たちのいる民を、だれが侮れよう。彼らを一人でも生かしておくのはまずい。ほうっておけば世界中を籠絡するにちがいない。」
 一二章
 12 あのような女を抱かずにほうっておくのは我々の恥だ。彼女にしても、もし誘いがなければ、我々をあざけるだろう。」
 16 ユディトはそこに入って来て、席に着いた。ホロフェルネスの心は彼女に魅了され、魂は揺さぶられた。そして、ユディトを抱きたいという激しい欲情にかられた。彼は初めて彼女を見た時から、誘惑しようと機会をねらっていたのである。
 一三章
 7 そして、寝台に近づくと彼の髪をつかみ、「イスラエルの神なる主よ、今こそ、わたしに力をお与えください」と祈って、
 8 力いっぱい、二度、首に切りつけた。すると、頭は体から切り離された。
 

 同日夜、『ユディト記』を再読して、『旧約聖書』に組み入れられなかった理由が分かったような気がした。

Vol.151 旧約聖書続編(外典)の『知恵の書』を読んで


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 一昨日(15日)に旧約聖書続編(外典)の『トビト記』と『知恵の書』を読みました。前回の更新(Vol.150)は『トビト記』を取り上げたことから、今回の更新は『知恵の書』を取り上げることに。
 巻末にある解説において、『知恵の書』は『シラ書』と同様、『箴言』の系統に属して、「日常生活と人生問題に指針を与えている」とあった。
 僕は『箴言』のような教訓書(『聖書』では「知恵文学」と呼ばれている)を読むのは決して嫌いではなく、むしろそこから何かを学びたいといつも思っている。『旧約聖書続編(外典)』を読み始めたのも、『シラ書』がきっかけになったことは既に述べたとおり(Vol.142)。
 前置きはこのくらいにして、本題へ。
 

 二章
 1 彼らはこう言い合うが、その考えは誤っている。「我々の一生は短く、労苦に満ちていて、人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。我々の知るかぎり、陰府から戻って来た人はいない。
 2 我々は偶然に生まれ、死ねば、まるで存在しなかったかのようになる。鼻から出る息は煙にすぎず、人の考えは心臓の鼓動から出る火花にすぎない。
 3 それが消えると体は灰になり、魂も軽い空気のように消えうせる。
 4 我々の名は時とともに忘れられ、だれも我々の業を思い出してはくれない。我々の一生は薄れゆく雲のように過ぎ去り、霧のように散らされてしまう。太陽の光に押しのけられ、その熱に解かされてしまう。
 5 我々の年月は影のように過ぎ行き、死が迫るときには、手のつけようがない。死の刻印を押されたら、取り返しがつかない。
 四章
 7 神に従う人は、若死にしても安らかに憩う。
 8 老年の誉れは長寿にあるのではなく、年数によって測られるものでもない。
 五章
 11 空を舞う鳥のように、飛び行くあとには何も残らない。鳥は軽い空気を羽で押しやり、飛び進む力でかき分け、羽ばたきで打ち散らすが、通り過ぎたしるしは後には何も見られない。
 16 それゆえ彼らは輝かしい王位を授かり、主の御手から見事な冠を受ける。主は右の手で彼らを覆い、その腕で彼らを守られる。
 八章
 9 わたしは、知恵と一緒に暮らそうと考えた。知恵が、善を勧めてくれ、悩みや苦しみを慰めてくれることを知っていたからである。
 一一章
 24 あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
 一三章
 11 一人のきこりが手ごろな木を切り出し、その皮をすべて念入りにはぎ、巧みに手を加えて、生活に役立つ器具を造り上げた。
 12 仕事に使った木材の余りを燃やして、食事を準備し、空腹を満たそうとした。
 13 そのまた残りの、何の役にも立たないねじ曲がった、節目だらけの木片を、仕事の合間に取り上げて注意深く彫った。暇つぶしとして巧みに形を整え、それを人の姿に造り上げた。
 一五章
 1 神よ、あなたは慈しみ深く、真実な方。怒るに遅く、すべてを治める憐れみ深い方。
 一六章
 12 主よ、彼らをいやしたのは、薬草や塗り薬ではなく、すべてをいやすあなたの言葉であった。

 以上は『知恵の書』を読んで、僕の心に響いた箇所です。備忘録として、記しておきたい。

 以下は余談。
 今日の午前中は土曜日の朝ということで、例によって、ボランティア活動(清掃奉仕)に従事しました。この後、結婚式が行われるということで、いつもより念入りに掃除しました。
 

Vol.150 旧約聖書続編(外典)の『トビト記』を読んで


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 昨日(15日)は旧約聖書続編(外典)の『トビト記』と『知恵の書』を読みました。
 今回の更新は『トビト記』を、次回の更新は『知恵の書』を取り上げることに。
 『トビト記』は巻末の解説にもあるように「民間説話」であり、僕はトビトの視力が回復する箇所と天使ラファエルが本来の姿を語った後、天へと昇って行く箇所に好感を持った。
 

 一一章
 12~13 更に両手を使って父の目の縁から白い膜をはがした。トビトはトビアの首に抱きつき、
 14 声をあげて泣いて言った。「お前が見える。わたしの目の光であるわが子が見える。」そして言葉を続けた。「神をほめたたえます。その大いなる御名をほめたたえます。神のすべての聖なる天使をほめたたえます。神の大いなる御名によってわたしたちが守られますように。すべての天使をとこしえにほめたたえます。
 一二章
  12 さて、今だから言うが、トビトよ、あなたが祈り、サラが祈ったとき、その祈りが聞き届けられるように、栄光に輝く主の御前で執り成しをしたのは、だれあろうわたしだったのだ。あなたが死者を葬っていたときもそうだった。
 13 あなたが食事にも手をつけないで、ためらわずに出て行き、死者を手厚く葬ったとき、
 14 わたしは試みるためにあなたのもとに遣わされて来たのだ。神はまた、あなたと嫁のサラをいやすためにわたしをお遣わしになった。
 15 わたしは、栄光に輝く主の御前に仕えている七人の天使の一人、ラファエルである。」
 19 わたしが実際には何も食べなかったことは今お分かりでしょう。食べているように見えていただけです。
 20 さあ、地上で主をほめたたえ、神に感謝をささげなさい。わたしは、わたしを遣わされた方のもとに昇って行く。あなたがたに起こったすべての事を書き記しなさい。」こう言ってラファエルは天に昇って行った。

 以下は余談。
 下の写真は昨日、旧約聖書続編(外典)の『トビト記』と『知恵の書』を読み終えた後に目にした景色で、外はすっかり夕日になっていました。
 

Vol.149 『サムエル記下』を読んで


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 今月8日に『サムエル記下』を読んだ。
 以前の更新(Vol.140)でも書いたけれど、『サムエル記上』を「『旧約聖書』の中で、最も面白く読んだ」ことから、『サムエル記下』を楽しみに読んだ。
 『サムエル記下』は『サムエル記上』ほどの面白さはなかったけれど、重要なポイントがあった。備忘録として、以下に列挙しておく。

 五章
 7 ところがダビデはシオンの要害を取った。これがダビデの町である。
 七章
 12 あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。
 13 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。
 14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。
 一一章
 3ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。
 4 そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。
 一二章
 7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、
 24 ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。
 

 『サムエル記下』で活躍したヨアブなどは、続く『列王記上』に出てくる。『列王紀上』は既に今月1日に読んでいることから、別の機会に改めて記すことにする。

Vol.148 『ナホム書』と『ゼパニヤ書』を読んで


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 偶然なのか、必然なのか、もう少し言えば、神の摂理だろうか。いずれ時が経てば、気付いたのだろうが、今日、デイヴィッド・W.・ベーカー著、山口勝政訳『ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社)を手に取った。
 下の写真がそれで、『ナホム書』を9月28日に、『ゼパニヤ書』を9月29日に既に読んでいたにもかかわらず、このブログ「Stay The Young (Trilogy)」にそれを記していなかったのだ。
 

 振り返ってみると、9月中旬から10月中旬にかけて、不愉快な出来事が続いたことから、それが原因だったのだろう。キリスト教(聖書)的な表現になぞらえば、霊的に戦っていて、昨日今日になり、少しだけ休憩というか、余裕ができたのだろう。
 2つの書から、例によって、僕の心に響いた箇所を以下に引いておく。

 『ナホム書』
 一章
 3 主は怒ることおそく、力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである。
 15 見よ、良きおとずれを伝える者の足は山の上にある。彼は平安を宣べている。ユダよ、あなたの祭を行い、あなたの誓願をはたせ。よこしまな者は重ねて、あなたに向かって攻めてこないからである。彼は全く断たれる。
 二章
 8 ニネベは池のようであったが、その水は注ぎ出された。「立ち止まれ、立ち止まれ」と呼んでも、ふりかえるものもない。
 三章
 2 むちの音がする。車輪のとどろく音が聞える。かける馬があり、走る戦車がある。

 『ゼパニヤ書』
 一章
 17 わたしは人々になやみを下して、盲人のように歩かせる。彼らが主に対して罪を犯したからである。彼らの血はちりのように流され、彼らの肉は糞土のように捨てられる。

 以下は余談。
 いのちのことば社によるティンデル聖書注解はシリーズ発行されているようで、今回、初めて目を通した。

Vol.147 一宮円空会 往生と念仏


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 今日の午後は一宮市へ行き、長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会へ顔を出しました。
 

 下の写真は今日の講座のテキストの1ページ目です。
 

 以下にテキストの内容を少し抜粋しておく。

 『往生』とは浄土へ「往(ゆ)」き、仏に「生(う)」まれることをいうのであって、今日では「困った」とか、「死んだ」ことに誤用されている。

 念仏とは称(とな)えるときに救われるのでもなければ、称えていれば助かるのでもない。称えようと思い立つ心の起きたときである。

Vol.146 外典『バルク書』を読んで


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 今夜は聖書外典『バルク書』を読んだ。
 備忘録として、僕が気になった箇所を列挙しておく。

 一章
 14 一緒に送る書を祝祭日や定められた日に主の家で朗読しなさい。そして罪を告白して、
 二章
 3 わたしたちは自分の息子や娘の肉を食べたのです。
 16 主よ、あなたの聖なる住まいからわたしたちを顧み、心に留めてください。主よ、耳を傾け、聞いてください。
 17 目を開いて見てください。陰府におり、息を肉体から取り去られた者は、主に栄光と義を帰することができません
 18ただ、人を押しつぶし弱らせる大きな苦しみに遭って嘆き悲しむ魂と、視力の衰えた目、飢えた魂が、主よ、あなたに栄光と義を帰するのです。
 三章
 29 天に昇って知恵を捕らえ、雲からそれを持って来た者がいるか。
 33 その方が光を放つと、光は走り、ひと声命ずると、光はおののいて従う。
 34 星はおのおの持ち場で喜びにあふれて輝き、
 35 その方が命ずると、「ここにいます」と答え、喜々として、自分の造り主のために光を放つ。
 38 その後、知恵は地上に現れ、人々の中に住んだ。
 四章
  12 もうだれもわたしを喜びたたえないように。やもめとなり多くの人に見捨てられたのですから。
 

 全部で五章あり、三章9節の「聞け、イスラエルよ、命をもたらす戒めを」から、それまでとは文章のトーンが変わったように感じた。

Vol.145 『こどもさんびか』と「いつもイエスさまが」


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 以前の更新(Vol.114)で、僕が最も好きな讃美歌について書いた。それは『讃美歌21』516番「主の招く声が」(「Dear Lord and Father of Mankind」)である。
 『こどもさんびか』についても書いておきたい。
 僕が好きな『こどもさんびか』はいくつかある。なかでも「どんどこどんどこ(106)」は初めて耳にした時のインパクトが忘れられない。「きみがすきだって(132)」や「かみさまのあいは(40)」を歌ったことがある。歌ったことはないけれど、「ガリラヤのかぜかおるおかで(54)」は作詞が素晴らしい。
 下の写真は正確には『こどもさんびか』ではないけれど、この歌も作詞が素晴らしい。
 

 「いつもイエスさまが(れいはいのおわりに)」
 1、
 さようなら みなさん このつぎ あえるまで
 いっしゅうかんのあいだに
 いろんなことがあるでしょう
 どんなにつらいときも、どんなにかなしいときも
 わたしのそばに、あなたのそばに
 いつもイエスさまがいる
 2、
 さようなら みなさん このつぎ あえるまで
 うちで、また がっこうで
 いろんなことがあるでしょう
 えがおがほしいときに、ファイトがほしいときに
 わたしのそばに、あなたのそばに
 いつもイエスさまがいる

 以下は余談。
 今日の午後は手話勉強会に参加しました。出席は2回目です。

Vol.144 2カ所でボランティア活動に従事


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 今日は午前中、清掃奉仕でした。いつもの清掃奉仕と少し違っており、普段は立ち入ることのできない場所から眺めた景色は新鮮でした。
 下の写真がそれで、画面奥から道路を挟んで見える景色は何度も目にしたことがあったけれど、こちら側から眺めたのは今日が初めてでした。
 

 午後からは場所を移動して、さらに別のボランティア活動に従事しました。

Vol.143 外典『マナセの祈り』と『エレミヤの手紙』を読んで


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 今月7日の夕方に『マナセの祈り』と『エレミヤの手紙』を読んだ。それぞれに僕が思うところのあった箇所を備忘録として、列挙しておく。

 『マナセの祈り』
 11 今、わたしは心のひざをかがめて あなたの憐れみを求めます。
 

 『エレミヤの手紙』
 4-5 気をつけなさい。群衆が神々の像を前から後ろから伏し拝むのを見て、あなたたちまでが異国から来た民に似た者となり、それらを恐れるようなことがあってはなりません。むしろ心の中で、「主よ、伏し拝むべき方はあなたです」と言いなさい。
 6 神の使いがあなたたちと共にいて、あなたたちの生活を見守っているからです。
 11 さびと虫食いから身を守れないのです。紫の衣をまとってはいますが、
 14 右手に短剣や斧を持ってはいますが、戦争や盗賊から身を守ることもできません。このように、それらの像が神でないことははっきりしているのですから、恐れてはなりません。
 20 その顔は神殿に漂う煙で黒ずんでいます。
 24 莫大な値段で買い求められますが、それらは息をしていません。
 46 神々の像を造る者でさえ、人より長生きするわけではありません。
 52 神々の像は一国に王を立てることも、人間に雨を恵むことも決してできません。

 「旧約聖書続編」、「第二正典」、「外典」、「アポクリファ」と、いろいろ呼び名はあるようだが、少し前の更新でも書いたように、ブルトマンが著作で取り上げていることもあって、『聖書』であろうが、なかろうが、それは問題ではなく、僕としては目を通さざるを得ない。理解を深めるために。

Vol.142 『シラ書(集会の書)』第三〇~五一章を読んで


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 前回の更新(Vol.141)からの続きで、昨日7日は『シラ書(集会の書)』第四一~五一章を読んだ。
 僕が『シラ書(集会の書)』を読むきっかけとなったのは、第三〇章21~25節の「晴れやかな心」であった。今の僕自身、それが必要だとアドバイスされているようで。

 三〇章
 14 貧しくても健康で体力のある方が、裕福で病気に苦しんでいるよりはよい。
 15 健康で丈夫な体は、あらゆる黄金にまさり、強じんな精神は、莫大な財産にまさる。
 16 体の健康にまさる富はなく、心の喜びにまさる楽しみもない。
 17 つらい生活を送るよりは、死んだ方がよく、長く患うよりは、永遠の安息の方がよい。
 18 食欲を失った者の前に、並べられたごちそうは、墓に供えられた食べ物と同じである。
 21 悲しみに負けて気力を失うな。あれこれ思い悩むことはない。
 22 朗らかな心は、人を生気にあふれさせ、喜びは長寿をもたらす。
 23 気分を変えて心を奮い立たせ、悲しみを遠くへ追い払え。悲しみは多くの人を滅ぼした。それは何の益にもならない。
 24 ねたみや、怒りは寿命を縮め、思い煩いは人を老けさせる。
 25 快活な心は食欲を旺盛にし、食べ物をおいしく味わわせる。
 三一章
 13 意地汚い目つきは下品であるとわきまえよ。造られた物の中で、目ほどさもしさを表すものはない。だから、人はごちそう一つ一つに目を潤ませる。
 15 同席の人を自分のことのように思いやり、すべてのことに気を配れ。
 16 出されたものは人間らしく食べよ。人に嫌われないように、音を立てて食べるな。
 18 大勢の人と食卓を共にするときは、他の者より先に手を出すな。
 三二章
 8 簡潔に話せ。わずかな言葉で多くを語れ。博識ではあっても寡黙であれ。
 11 潮時と見たら、席を立ち、ぐずぐずするな。まっすぐ家へと急ぎ、道草を食ってはならない。
 19 よく考えずに何事をも行うな。そうすれば、何をしても後で悔やむことがない。
 20 危ない道を歩むな。そうすれば、石だらけの道でころぶことはない。
 23 何事をするにも自信を持て。これも掟を守ることなのである。
 三三章
 4 話は前もって準備せよ。そうすれば聞いてもらえる。習得したことを整理してから答えよ。
 5 愚か者の心は、馬車の車輪のようなもの、その考えは、心棒のようにぐるぐる回る。
 7 どうして、ある日はほかの日よりも重要なのか。一年のどの日にも、同じ太陽の光が注ぐのに。
 三七章
 13 何よりも心に浮かんだ考えを大切にせよ。これ以上に頼りになるものはないのだから。
 14 高い所から見張る七人の監視役にまさって、人の魂は、時として、その人自身に語りかける。
 三八章
 21 忘れてはいけない。その人は戻らないのだ。嘆いても彼のためにはならず、自分の体を損なうだけだ。
 22 彼の運命であったと考えよ、お前も同じ定めにあるのだから。「昨日はわたし、今日はお前の番だ。」
 四〇章
 1 つらい労苦は、人間だれしも避けられないもの。重い軛がアダムの子孫にのしかかっている。母の胎を出た日から、万物の母なる大地のもとへと戻るその日まで。
 四一章
 2 死よ、お前の宣告はなんとありがたいことか、生活に困り、力衰えた者にとって、また、老け込んで、あらゆることに心を悩まし、頑固になり、忍耐を失った者にとっては。
 

 四四章から五〇章までは『旧約聖書』の主要な登場人物の人生を著していた。

 四四章
 9 忘れ去られた者もある。彼らは、存在しなかったかのように消え去り、あたかも生まれ出なかったかのようである。彼らの子孫も同様であった
 四七章
 17 あなたの歌、格言、たとえのゆえに、あなたが与えた解釈のゆえに世界は驚嘆した。
 四八章
 1 そして火のような預言者エリヤが登場した。彼の言葉は松明のように燃えていた。
 23 太陽が後戻りして王の寿命が延ばされたのは、イザヤの時代であった。
 四九章
 4 ダビデとヒゼキヤとヨシヤを除き、すべての王は罪に罪を重ねた。彼らはいと高き方の律法を捨てたのだ。こうしてユダの王室は絶えた。
 7 人々はエレミヤを虐げた。このエレミヤは、抜き取り、苦しめ、滅ぼすために、しかしまた、建て、植えるためにも、母の胎にいるときから預言者として聖別されていたのである。
 8 エゼキエルは栄光の幻を見た。神がケルビムの車輪の上で示されたものである。
 五〇章
 27 悟りと知識の教訓をこの書物に書き記したのは、シラ・エレアザルの子、エルサレムに住むイエススである。彼は知恵をその心から注ぎ出した。
 五一章
 9 わたしは地上から嘆願の声をあげ、死からの救いを祈り求めました。
 25 わたしは口を開いて語ってきた、知恵を得るのに金はかからないと。

 全五一章に目を通したが、体調やその日の気分によって、どの聖句が心に響くかは当然違ってくる。だが、しかし、こうして書き留めておくことで、今の自分を後になって知ることができるだろう。

Vol.141 『シラ書(集会の書)』第一~二九章を読んで


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 この春から本格的に読み始めた『聖書』は、残すところが『旧約聖書』の『レビ記』、『民数記』、『サムエル記下』、『歴代志上』、『歴代志下』、『詩篇』、『ダニエル書』、『マラキ書』と『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』となった。
 このあたりで少し目先を変えて、『外典(アポクリファ)』と呼ばれる文書に目を通してみたくなった。
 そもそもブルトマンの著作を読むと、『外典(アポクリファ)』と呼ばれる文書がしばしば取り上げられており、その筆頭とも呼べるのが『シラ書(集会の書)』である。
 僕は『聖書』を基本的に口語訳で通読しているが、外典に限っては、翻訳の事情により、新共同訳で目を通すことに。
 前置きはこのくらいにして、本題へ移ろう。
 『シラ書(集会の書)』は今月3日から読み始めて、昨日の6日時点で、第一~四〇章まで目を通した。今回の更新では第一~二九章までを取り上げたい。
 以下は備忘録として、僕が個人的に気に入った箇所を列挙しておく。

 一章
 14 主を畏れることは、知恵の初めである。知恵は、主を信じる人たちに 母の胎内にいるときから与えられている。
 23 辛抱強い人は、時が来るまで耐え忍ぶ。耐え忍んだ後には、気分が晴れて壮快になる。
 二章
 1 子よ、主に仕えるつもりなら、 自らを試練に向けて備えよ。
 3 主に寄りすがり、決して離れるな。そうすれば、豊かな晩年を送ることになる。
 三章
 18 偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。
 四章
 4 悩んで助けを求める人を拒むな。貧しい人から顔を背けるな。
 5 物乞いする人から目を背けるな。お前を呪う口実を彼に与えるな。
 6 その人が恨みを込めてお前を激しく呪えば、 造り主は、彼の願いを聞き入れられるから。
 7 会堂では、人々から好意を持たれるようにせよ。権威ある者には、頭を低くせよ。
 12 知恵を愛する者は、命を愛する者。朝早く起きて知恵を求める者は、 喜びに満たされる。
 17 知恵は、最初、お前を険しい道に連れて行き、 恐れの気持を抱かせて、おじけさせる。知恵の試練は、お前を激しく苦しめる。知恵は、お前を信頼するまで、 数々の要求を突きつけて、お前を試みる。
 18 だがすぐに、知恵は再びお前のもとに来て、 お前を喜ばせ、その真意を明らかに示す。
 19 しかし、お前が道をそれるなら、 知恵はお前を見捨て、 お前が破滅していくにまかせる。
 五章
 11 人の言葉には、速やかに耳を傾け、 答えるときは、ゆっくり時間をかけよ。
 六章
 6 多くの人々と親しく挨拶を交わせ。だが、相談相手は千人のうち一人だけに限れ。
 27 足跡を追って、知恵を探せ。そうすれば、知恵が見つかるだろう。しっかりつかんだら、それを手放すな。
 28 ついには、知恵に憩いを見いだし、 知恵は、お前にとって、喜びに変わるだろう。
 35 神に関する話には、進んで耳を傾け、 洞察を秘めた格言は、聞き漏らすな。
 36 洞察に富んだ人に出会ったら、 朝早くからその人のもとへ行き、 戸口の敷石がすり減るほど、足しげく通え。
 一〇章
 29 自分自身を汚す者を、 だれが正しい人と認めてくれるだろうか。自分自身を軽んじる者を、 だれが重んじてくれるだろうか。
 一一章
 23 お前はこう言ってはならない。「今の自分は何の役に立つのだろう。今後役に立つとしたら、それは何だろう」と。
 25 人は、幸福なときには不幸を忘れ、 不幸なときには、幸福を思い出さない。
 一三章
 25 心の状態で、人の顔つきは変わる。うれしい顔にもなれば、悲しい顔にもなる。
 26 晴れやかな顔は、良い心の表れである。それにしても、格言作りは、骨が折れる。
 一四章
 6 自分のことで物惜しみする人ほど 痛ましい者はない。それこそは、その人の悪の報いである。
 18 枝先に揺れる葉も、 散ってはまた芽生え出る。血と肉である人間の世代も、 ひとつが終われば、他のものが生まれる。
 一五章
 17 人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられる。
 一六章
 30 主は、地の面をあらゆる命あるもので覆われた。しかしこれらは、死んで再び土に帰る。
 一七章
 28 死んで、もはや存在しない人からは、 感謝の言葉も消えうせる。生きていて健やかなときにこそ、 人は主を賛美する。
 一八章
 7 人が究め尽くしたと思ったときは、 まだ始まったばかりであり、 途中でやめてしまうと、徒労に終わる。
 8 人間とは何者か。その存在の意義は何か。その行う善、その行う悪とは何か。
 9 人の寿命は、長くて百年。〔しかし、永遠の眠りは計り難いほど長い。〕
 10 大海の中の一滴、砂の中の一粒のように、 永遠という時に比べれば、 この寿命はわずかなものにすぎない。
 17 親切な言葉は、高価な贈り物にまさるではないか。情け深い人は、両方とも備えている。
 26 早朝から夕方へと、時は移り、 すべては、主の御前で、速やかに過ぎ去る。
 一九章
 29 人は、会ってみれば分かる。賢い人は、顔を合わせてみればすぐ分かる。
 30 身なりや笑うときの口の開け方、 また、その歩きぶりは、その人の人柄を示す。
 二〇章
 9 不幸な目に遭って、幸せを見つける人もいれば、 思わぬ幸運に巡り会って、損をする者もいる。
 

Vol.140 『サムエル記上』を読んで


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 今月4日(一昨日)に『サムエル記上』の第一~一三章を、翌日の5日(昨日)に第一四~三一章を読んだ。

 二章
 一 ハンナは祈って言った、「「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである。
 二 主のように聖なるものはない、あなたのほかには、だれもない、われわれの神のような岩はない。
 三 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。
 四 勇士の弓は折れ、弱き者は力を帯びる。
 五 飽き足りた者は食のために雇われ、飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、多くの子をもつ女は孤独となる。
 六 主は殺し、また生かし、陰府にくだし、また上げられる。
 七 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くされる。
 八 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、王侯と共にすわらせ、栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、その柱の上に、世界をすえられたからである。
 九 主はその聖徒たちの足を守られる、しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。
 一〇 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、地のはてまでもさばき、王に力を与え、油そそがれた者の力を強くされるであろう」。

 『創世記』から始まる『旧約聖書』の中で、最も面白く読んだというのが、正直な感想だ。特に三章のサムソンが主からの呼びかけに応じる場面と、サウルが登場する九章からは続きが読みたくなるといった具合だ。
 

 サウルの評判は『聖書』を論ずる人たちからは芳しくないけれど、僕はサウルほど人間的な登場人物は他にないと感じた。
 サウルはサムエルを待たずに、主の命じた命令を守らなかった。悪霊に悩まされるが、琴の音を聞くと、良くなる。ダビデを殺そうとした。口寄せの女を呼ぶ等々、最後には自害する。
 僕にとって、『サムエル記上』はサウルの人生物語として、『旧約聖書』の他の書物よりも、印象深く心に残ったのだった。

Vol.139 2つのモザイク(タイル画)を目にして


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 前回の更新(Vol.138)に関連する話題で、名古屋中央教会の玄関口を彩る素敵なモザイク(タイル画)を目にしました。
 その際、ふと頭に浮かんだことがあり、昼食前の空き時間に少し歩いて、目と鼻の先にある中日ビルへ行きました。
 というのも、ここにも確かモザイク(タイル画)があったはず。
 下の写真がそれで、どうやらこの天井にあるモザイク(タイル画)は「夜空の饗宴」というらしい。
 

 今まで中日ビルに何度も出入りして、目にしているが、さほど興味が湧かなかったけれど、2019年3月末で閉館することから、間近で見たり、手で触れたりして、じっくりと観察しました。
 

Vol.138 久屋ぐるっとアートのスタンプラリーとイベント


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 今日の午前中は名古屋市東区(栄地区)で行われていた「久屋ぐるっとアート」のスタンプラリーに参加して、名古屋中央教会のパイプオルガンミニコンサートを聴きました。
 下の写真は「久屋ぐるっとアート」のスタンプ場所になっている名古屋中央教会の玄関口です。
 


 下の写真は礼拝堂で行われていたパイプオルガンミニコンサートの様子です。
 

 少し遅い昼食を済ませた後、調べものの為、鶴舞にある名古屋市図書館(鶴舞中央図書館)へ向かいました。

Vol.137 関市洞戸円空記念館と高賀神社の秋季大祭


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 今日の午後は岐阜県関市にある関市洞戸円空記念館へ行き、長谷川公茂先生の写真撮影のお手伝いをしました。
 

 下の写真は関市洞戸円空記念館に展示されている日光・月光菩薩像で、像の背面に梵字が記されていました(写真は関市洞戸円空記念館から許可を得て撮影しており、転載・再配布等を固く禁止します)。
 

 帰途は長谷川公茂先生と一緒に道の駅へ立ち寄ったり、喫茶店でコーヒーブレイクをしたりと楽しい時間を過ごしました。
 

 文末になってしまいましたが、関市洞戸円空記念館の皆様には、写真撮影等で、大変お世話になりました。この場を借りて、お礼申し上げます。

 以下は余談。
 明日の文化の日は高賀神社にて秋季大祭が行われます。また、関市洞戸円空記念館の入館料が無料となります。