Vol.186 ZARAの赤色の紙袋


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 昨日はZARAへ行き、姪っ子が着用するトレーナーとフリル付きショートブーツ(参照)を購入。
 下の写真がSALEになっていたトレーナーで、購入した際、いつもとは違って、赤い色の紙袋に。
 


 今年(2018年)最後の更新はZARAの話題となりました。
 来年は良い年に、と切に願うばかり。

Vol.185 ウェスレーの「キリスト者の完全」


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 先週のことになりますが、教会にて、いつもご教示くださる I さんから、「よかったら、差し上げます。読んでみてください」と手渡されました。小林弘著『説教集 第二の恵み ウェスレーの信仰と神学』(ウェスレー友の社)でした。
 下の写真が表紙で、僕はジョン・ウェスレーなる人物について、メソジストで、午後9時15分前に回心した、というエピソードを読んだことがありました。
 

 本書を読み進むと、ウェスレー『キリスト者の完全』の中にある「回心と全き救い」という題目の文章が引用されていた(29~30ページ)。そこには、「そして自分の無力なことを知り、ただ主によって、主の御姿に改造されたいと、言いがたい渇望をおぼえて祈るようになる」という一文があり、読後に振り返って、最も印象に残った箇所だ。
 以前にも I さんからは教会の『創立130年記念誌』や雑誌『百万人の福音』を頂戴しています。

 以下は余談。
 先日から、また今日も「過去と他人は変えられない」を勉強させられました。そして、悪いこと(嫌なこと)はなぜか重なる。

Vol.184 クリスマス賛美礼拝


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 昨夜はクリスマス賛美礼拝に出席しました(受付のお手伝いもしました)。
 下の写真がそれで、「開かれた教会」をモットーとすることから、礼拝には約300人が出席して、座席はすべて埋まりました。
 

 下の写真はクリスマス賛美礼拝のスケジュールで、讃美歌261「もろびとこぞりて」の歌い出しと繰り返される「主は来ませり」のフレーズを聴く(歌う)と、「クリスマス、おめでとう」といった気分になります。
 

 クリスマス賛美礼拝の終了後、下の写真にあるようにオアシス21を歩きました。
 

 愉快だったのはクリスマス・イヴということで、錦通にてサンタクロースに扮したライダーたちと遭遇しました。お互いに手を振り合い、やっぱりバイクはいいね、と。

 以下は余談。
 クリスマスの前々日から、再度、嫌なことが始まるというのは偶然とは思えない。「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」(『ローマ人へ手紙』5:3~4)。

Vol.183 ブルトマン著作集6 イエス・原始キリスト教(新教出版社)を読んで


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 前回の更新(Vol.182)と関連して、11月上旬に『ブルトマン著作集6』イエス・原始キリスト教(新教出版社)を拾い読みしていたが、ここに書けるほど、まだ読み込めていない。残念ながら、今は精神的な余裕がない、というのが正直なところで、『ブルトマン著作集』をいつかはすべて目を通したいと思っているけれど、もう無理かもしれない。
 

 下の写真は『ブルトマン著作集6』の巻末に収録された「『イエス』の聖書引用索引」で、せめてブルトマンが取り上げた共観福音書の該当箇所だけでも目を通しておけば、得られるものがあるはずだ。
 

 『マタイによる福音書』
 5:54 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
 19:12 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。

 『マルコによる福音書』
 8:11以下 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
 12:29-31 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛しなさい』。 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。

 『ルカによる福音書』
 14:26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。

 多くの教会にて、クリスマス礼拝が行われる今日、「イエス」ということで、それにふさわしい話題となりました。

 以下は余談。
 整理しておくと、僕が手に取ることのできた『ブルトマン著作集』(新教出版社)は
  『ブルトマン著作集1』共観福音書伝承史1
  『ブルトマン著作集2』共観福音書伝承史2
  『ブルトマン著作集3』新約聖書神学1
  『ブルトマン著作集5』新約聖書神学3
  『ブルトマン著作集6』イエス・原始キリスト教
  『ブルトマン著作集7』聖書学論文集1
  『ブルトマン著作集8』聖書学論文集2
  『ブルトマン著作集9』聖書学論文集3
  『ブルトマン著作集11』神学論文集1
  『ブルトマン著作集12』神学論文集2
  『ブルトマン著作集13』神学論文集3
  『ブルトマン著作集14』神学論文集4
 であり、その中において、とりわけ7巻、8巻、11巻、14巻を集中的に読んでいた。

Vol.182 ブルトマン著作集9 聖書学論文集3(新教出版社)を読んで


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 『ブルトマン著作集9 聖書学論文集3』青野太潮・天野有訳(新教出版社)をところどころ拾い読みをしている最中です。
 

 例えば、本書の2番目に載っている「ヨハネ第一の手紙の教会的編集(1951年)」の冒頭に目を通しただけで、ブルトマンの釈義に「なるほど、そうなのか」と僕は興奮させられ、感動を覚えるのだ。
 本書の巻末に収録された聖句索引の中にある「古代の非キリスト教文献」には、改めて圧倒されました。以前にも書きましたが、ブルトマンの教養の奥深さが一目で分かります。
 下の写真がそれで、一例を挙げれば、僕は浅学ゆえに、ミムネルモス『ナンノ断片』を全く知りませんでした。
 

 ブルトマンと言えば、1941年、第二次世界大戦中に語られた「非神話化」だけがクローズアップされ、ブルトマン神学に対する批判ばかりが目立つけれど、失敗から学ぶようにして、僕はそこから多くを学んだ。

 以下は余談。
 学んだと言えば、僕はこの数日、以前の更新(Vol.155)で取り上げた神谷美恵子の言葉を思い出していた。

 つまり、みな短気をおこしているのである。どうせ自分なんかもうだめだ、と自分をみかぎり、事態もよくなることなどありえない、と世界と時間の可能性に対して完全にみきりをつけてしまっている。そして、耐えがたい苦悩をたち切るため、まぎらすため「短絡反応」に出るわけである。(『生きがいについて』144~145ページ引用)。

 今年も残り少なくなったが、ひょっとしたら、僕の心を最も強く打ったのは、上に引いた神谷美恵子の言葉かもしれない。

Vol.181 江頭 2:50 のピーピーピーするぞ!


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 今夜は「江頭 2:50 のピーピーピーするぞ!」を視聴しました。
 僕は江頭 2:50 さんの大ファンで、今朝から嫌なことが続いたので、体を張ったエガちゃんの姿を見て、元気をもらいました。
 下の写真は今日の午後、目にしたMEGAコンコルドの看板です(僕はパチンコをしませんが)。
 

 僕が凄いなと尊敬するお笑い芸人は、横山やすしさん、明石家さんまさん、江頭 2:50さんの3人だけです。
 さらに、アニメ「じゃりン子チエ」を視聴して、チエちゃんやテツといった登場人物たちからも元気をもらいました。

 以下は余談。
 今日は7月中旬以来、下の写真にある場所へ足を運びました。
 

Vol.180 『歴代志下』を読んで


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 『歴代志下』は先月26日に読んだが、なかなかまとめられなかった。内容は『列王紀』に対応する。時間が経ってしまったことから、忘れてしまったことも多い。『歴代志下』の一章から九章は『列王紀上』の一章から一一章と同じ内容である。
 『歴代志下』の各章と登場する王を記すと、九章までがソロモンで、一〇章から王国の南北分裂時代となる。
 北王国はイスラエルで、ヤラベアム王。南王国はユダで、レハベアム王に。
 一〇章から一二章はレハベアム。
 一三章はアビヤで、南王国ユダの崩壊。
 一四章から一六章はアサで、一五章はアサとアザリヤ。
 一七章から二〇章はヨシャパテ。
 二一章とニニ章はヨラム。
 二三章とニ四章は祭司エホヤダで、二四章はヨアシ。
 二五章はアマジャ。
 二六章はウジヤで、以降の章から預言者イザヤがたびたび出てくる。
 二七章はヨタム。
 二八章はアハズ。
 二九章から三二章まではヒゼキヤで、三二章はセナケリブが加わり、ヒゼキヤのトンネルについて記されている。
 三三章はマナセ、アモン。
 三四章と三五章はヨシヤで、三四章には『列王紀下』二二章に出てくる律法の書の発見。三五章には旧約聖書の『エズラ記(ギリシア語)』と多くの平行部分が存在して、エレミヤ哀歌について記されている。
 三六章は弱小の王たちで、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキンと、最後の王はゼデキヤで、南王国は滅び、バビロン捕囚になる。文末の二二節からは次の『エズラ記』と内容が重複している。
 さて、箇条書きでは分かりづらく、これまでに取り上げた『列王紀上』、『列王紀下』、『歴代志上』に対する参考のためにも、過日の更新(Vol.172)で紹介したマクグラス著・本多峰子訳『旧約新約聖書ガイド』の中から、王と地図を載せておく。ただし、口語訳と新共同訳では、王たちの名前に違いがある。例えば、口語訳ではレハベアムだが、新共同訳ではレハブアム等。
 

Vol.179 虹を見ました


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 昨日の午後は虹を目にしました。
 下の写真がそれで、鳥たち(おそらくムクドリかヒヨドリ)が目の前を横切り、飛び去って行きました。
 

 僕は虹が大好きなことから、とても嬉しかったです。そして、虹を目にしながら、『創世記』の中にある聖句を思い出していた。

 九章
 13 すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。
 14 わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。

 人は生きている間に何回、空に架かっている美しい虹を目にすることができるのだろうか。

 以下は余談。
 最近になって、当たり前だと思っていたことが、そうではないことに気付かされることが多くなりました。

Vol.178 『人生は生きがいを探す旅 神谷美恵子の言葉』(三笠書房)を読んで


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 今日の午前中は昭和人物研究会著・日野原重明監修『人生は生きがいを探す旅 神谷美恵子の言葉』(三笠書房)を読みました。
 

 本書は見開きページで、85項目(神谷美恵子の言葉)を取り上げ、それを解説した構成となっている。
 とりわけ僕の心に響いた言葉は、「4 欲望」、「10 他人をなぐさめるということ」、「25 運命」、「30 道を求めて」、「60 新しい生きがいを、みいだしたいなら」で、他にも素晴らしい箇所が多々あったが、長くなるのでやめておく(25と60の内容は以前の更新で取り上げている)。
 下は本書112ページの「47 読書に助けられて」で、「宝塚の自宅にて」撮影された際の写真が掲載されており、神谷美恵子のリラックスした姿が印象的だった。
 

 本書の巻末に付された出典一覧と参考文献が大変参考になったことを付け加えておく。

Vol.177 クリスマスの愛餐会・祝会


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 今日の午後はクリスマスの愛餐会・祝会に参加しました。
 下の写真は愛餐会にて、皆が持ち寄った料理で、僕はいつものようにポテトチップス(BIG BAG)を持参しました。
 

 祝会では、聖歌隊のコーラスや、いつも良くしてくださっているY様のゴスペルを聴きました。
 休憩タイムには、牧師様が扮するサンタさんから子どもたちへクッキーのプレゼント。
 

 とても楽しい時間を過ごして、幸せな気持ちになりました(受付や片付けの奉仕も含めて)。
 最後に忘れずに感謝の気持ちを記しておきたいと思います。

 以下は余談。
 実を言うと、僕は前日にオーブンで焼きあがったばかりのクッキーを目にしていました。
 

 付記
 『コリントの信徒への第二の手紙』5章17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

Vol.176 旧約聖書続編『マカバイ記一』を読んで


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 今朝、旧約聖書続編『マカバイ記一』を読み終えた。
 

 しかしながら、目を通したのは一章から六章までが12日の朝、七章と八章が同日夕、九章が同日夜、一〇章から一二章が翌13日午前、一三章から一六章までが15日(今朝)ということで、まさしくぶつ切りの状態。内容を理解したとは言い難い。
 読んでいて、印象に残った箇所は二章49から68節までに記されたマタティアの遺言と、父のマタティアに代わって立った息子のマカバイと呼ばれるユダがセロンを撃つ三章17から26節の場面であった。

 以下は余談。
 今日の午前中は例によって、清掃奉仕のボランティアでした。
 

Vol.175 佐々真利子さんの法話を読んで


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 前回の更新(Vol.174)からの続きで、「聴聞のページ(ご法話のページ)」にある佐々真利子さんの「お念仏は大きな海 他20話」から僕の心に響いた法話を引用しつつ、読んだ感想を(参照)。

 「先に出てる」
 あるお方から、「あなたがおっしゃる”わるうても先に出てるでしょう”と、云われることが理解できません」と、お便り頂きまして大変有り難く、今日までのことを振り返って考えさせて貰いました。
 四十五年前、小児マヒの不具な身体の上に脊椎カリエスに罹り、事実が私に都合悪くても、私の分別意識以前に、先々に出て来て始末がつかなくなって困り果てたのです。 勿論私なりに出て来る事柄を努力して私に都合の善い様にして来たと思っていた時代もありました。それで問題なかった時はそれで良かったのです。
 でも問題になって来たのは、次々に出て来る事柄が私の思いに反し、又努力しても私の力や分別で何ともならなくなった所に問題となり、苦悩となったのです。
 其処は、私という者が全く用をなさない地獄の真っただ中でした。而も、地獄絵の通り青鬼、赤鬼が容赦なく責めたてるように、罪悪に責められ、煩悩は火と燃えるのです。その地獄の底でのた打ち廻っている時初めてお念仏となって、「悪うても先に出てるでしょう、あなたの都合で活動してる世界ではありません、他力の世界です。訳はあなたに解らなくても脈々と大法界、他力の世界は無量寿・無量光に活動している世界です。解らなくてもそうなのです。お他力です。」との仰せがとどいて下さったのです。
  決して私が解って、解ったのではありません。私の分別意識も、常識も間に合わない、全く地獄のその下でお待ち受け下さって、お念仏となって、一切他力だとお引き取り下さったのです。今振り返るとそういうことでございました。
 仏様を上の方に祭り上げて、私を助けて下さい、出て来た現実を、私の分別常識で考えている善いこと、幸せと入れ換えて下さいと、拝んでいた間は遠い仏様でした。私には全く何の解決も出来なくなった所にお念仏さまが口を割ってお出まし下さって、地獄の底までお迎えに来て下さったのです。ただただ”なむあみだ仏”でございます。南無阿弥陀仏

 「お救い」
  たのめとは 助かる縁のなき身ぞと 教えて救う弥陀のよび声
 というお歌がございます。私は、「助かる縁のなき身」ということと、「救う」の内容が解りませんでした。私が考えていたものと違っていたのです。
 救いとは、常識的に上へ、上へとあがってゆく救い、救い上げて貰うものと思っていました。ところが、仏法のお救いは、お念仏の世界のお救いは、仏さまのお手の中から迷い出て、大分高上がりして困っているので、一段一段おろして、仏さまのお手の中まで帰してくださるお救いだったのです。
 私はそのようなことは解らず、今のこの場が嫌いで、この場を私は好きな気にいるようにしよう、私の力で出来ないなら、神・仏様にお願いして私の都合のよい場と入れ換えて貰おう、この場から救い上げて貰おう、そうすると楽になるかのように思っていました。それがお救いだと思っていたのです。
 ところが、上がると又落ちる、一つ解決ついても又他の苦悩が出て全く始末がつかないのです。それを「助かる縁のなき身」と仰せられていたのでございました。
  散る桜 残る桜も 散る桜
 自分だけでは散りたくない、恐い、としがみ着いてるその地獄の下から、「残る桜も散る桜やぞ、助かる縁は無いよ、個人の自由は無いよ、”なむあみだ仏”と親の名をよびなさい」と、親様は地獄の下にお待ちくださって喚んでいられたのでございました。勿体ないことでございます。
 それを上に向かって索していたのでおよび声に遭えなかったのでございます。
 ”なむあみだ仏”お念仏称えさせて貰ったことが、私の助かる縁がなかったことを教えて頂いた証拠であり、阿弥陀仏のおよび声がとどいてくださったことだったのです。個人の救い、私の勝手気ままに救われる所が全く無くなったら、一切大法界、お他力のお働きが脈々と、無量寿・無量光に止まることなくご活動くださっていたのでございました。正遠先生は、
  咲いて散り 咲いて散りつつ無量寿の ここはまことに寂光土かな
 と、ご讃嘆なさっていられます。南無阿弥陀仏

 上の文章(法話)を読んだ際、その中に出てくる「助かる縁のなき身」とは、まさしく僕のことだと思わざるを得ませんでした。僕の人生において、苦難を解決しても、また次に試練がやって来て、苦しみ深く、今はほとほと疲れています(人前では明るく、独りなると滅入ってばかり)。
 そして、馬齢を重ねるたびに、つくづく自分は無力だ、と。

 以下は余談。
 明日という日を迎えるにあたって、ふさわしい話題でした。
 下の写真は円空さんが書いた六字名号(南無阿弥陀仏)です。
 


Vol.174 藤原正遠さんと佐々真利子さんの法話を読んで


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 前回の更新(Vol.173)からの続きで、話題に取り上げた「聴聞のページ(ご法話のページ)」に「彩雲院 釈 正遠師 南無阿弥陀仏の明け暮れ」と並んで、「佐々真利子さん 念仏ひとり遊び 他」というページ(参照)があり、それを引用しつつ、読んだ感想を。

 「念仏ひとり遊び」
 私事で恐縮でございますが三月十三日は十八年前八十三才で亡くなった母の祥月命日でございます。私は六人兄弟の末っ子です。二つの時小児マヒになりまして、体中ぐにゃぐにゃになった私を「どの程度まで治るか医学では何とも云えない」と、六十年前に診断された時の母の愕きはどんなだったでしょう。それからの母は命がけで神仏に祈願し、少しでも良いと聞けばどんなことでもしてくれた様です。
 どうにか這いずり廻りながら自分のことだけは曲がりなりにも出来るようになったのですが、母は自分が死んだ後が心配になったのです。兄達の厄介になるんだがその家庭まで乱させてはならん。それには僻まんように育てなければと思ったそうです。私が物心ついた時母が云うんです。「お前は不具者なんだ片輪者なんだ、だから何かと人様のお世話になるのだから感謝の気持ちを忘れてはならん。又片輪者は人様には物珍しいのだから後指をさされるかもしれん、お前も物珍しいものは見たかろう、それと同じことだから気にせんでいいんだよ」と聞かされました。
 それでいて人様が振り向かれると母は悲しい顔をするのです。私は何かとっても親不孝してる様でその方が辛うございました。今そんなことを娘に云わなければならなかった母の悲しさを心に痛く感じます。
 又自分が死んだら話し相手がなくなるのではないかと心配した母は、一切の親様である阿弥陀仏と何でもお話しできるようになるようにと、お手次であるここ光源寺様や方々のご法座に連れて行ってくれたのです。それが恩師藤原正遠先生に三十七年もご慈育頂き、今に何かとお教え賜るご縁となったのです。
 正遠先生のお歌に
  念仏とひとり遊びのできること これを大悲とわたくしは云う
 とございますがお陰様でこのお歌を有り難く頂けることを嬉しく思います。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 前記「生まれて来てよかった」の始めの原稿、従ってこの原稿は(没とした原稿)
 散り急いだ桜の花のあとに、草木の新芽がすがしく伸びてゆく命を目に見せ心に感じさせて下さるこの頃でございます。皆様も希望に燃えてご活躍のことと思います。
 然し私は不具者ですので万物が生き生きとなればなる程、一体私は何の為に生まれて来たのか、世の為人の為どころか、自分自身を持て身体で、私の人生は何なのか、生まれて来て良かったと思う日が一日でもあるだろうか、人生の意義って何だろうか、と思い悩んだことがございます。そしてその答えは仏法様にあるようにおもいまして聴聞致しました。幸いの遇い難い師 藤原正遠先生にご縁を頂きました。
 先生から『訳が解ってお念仏するのではない、苦しく悲しく、自分で自分が始末つかなかったら、身も心も生んで下さった親を「お母さん」と呼ぶように、万物の親でまします阿弥陀仏が「我が名を称えてくれ」と喚んでいらっしゃるから「南無阿弥陀仏」とお念仏なさい、訳は仏様の方におありになるのです』と、お教え頂きました。私はなかなかそれが信じられず、お念仏が称えられませんでした。何か「これだ」というような人生の意義があるのではないか、と心密かに思っていました。
 処が仰せの通り、訳は仏様の方におありになったのでしょう。私の思い以前に先に先に善い事も悪い事も出てくるのです。
 正遠先生のお歌に
  来し方も亦行く方も今日の日も我は知らねどみ運びのまま
 とございますが、一切はみ運びだったのです。人生の意義なんて私の方には無く、訳は解らなくても仏様の方に何か訳がおありになるのでしょう。私のような者にもみ運びのお命の中に仏様のお与えのご用がすむまで、一息一息をつかせて貰ってることをお教え頂き、生まれて来てよかった、生きていて良かった、と有り難く嬉しく思っています。皆様にはご迷惑おかけしますが、どうぞよろしくお願い申しあげます。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 上に引いた2つの文章(法話)を読むと、藤原正遠さんと佐々真利子さんは素晴らしい師弟関係にあったようで、実に羨ましい。
 さらに僕の心に響いた佐々真利子さんの文章(法話)を引用しておきたい。

 「苦悩の根本」
 お恥ずかしいことでございますが、私は色々の事が気になり苦悩します。それでその苦悩の本を考えてみますと、あの人がああしたから、あれをこうしてくれたら良いのに、と自分以外のことを原因だとしているのです。
 処がよく考えてみますと、私を出発とし、中心としてる所から苦悩が始まっているのです。私に都合がわるかったのです。それで先方を私の都合のよいようにしようとするのですがびくとも動きません。先方を責めると、反発され嫌われます。こちらの苦悩は深まるばかりで、持って行く所がありません。
 そんな私の口から「なんまんだ仏」とお念仏さまが流れ出て下さって「お前は自分を中心にして苦悩してるが、お前自身で生きてるのでないのだよ、毛筋一本もお前の自由にはならないのだ、一つでも自分の思い通りにならない事があればそれが証拠なの。そうすると、思い通りになってもそれも大法界のご活動なんだ。解るかね、解らんでもそうなんだよ」というお声が聞こえて参りました。
 浅原才市様のお歌に、「私は善いことがあれば迷う、善いことがなくて仕合せなんまんだ仏」と、ございます。
 真にお念仏は私個人の根を切って下さって、大法界へ帰し摂取してそこから一切のものを見せて下さるのです。そうすると一切のものが矛盾なく、狂いなく活動していたことが教えられ安心させて下さるのです。
 相変わらず事に触れ、折に触れて泣いたり、笑ったり苦悩したりです。それがそのまんま大法界のご活動だったのです。でも苦悩は苦悩ですので大法界から大悲のみ親は「なんまんだ仏」と、お念仏となって抱いて下さるのです。
 今日も心痛いことがあってお念仏様が流れ出てくださいました。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 「聴聞のページ(ご法話のページ)」には、佐々真利子さんの「念仏ひとり遊び 他」と並んで、「お念仏は大きな海 他20話」もあり、長くなることから、次回の更新で。

 以下は余談。
 今日の午後はお地蔵様の赤い頭巾と前掛けを新しくしました。
 

Vol.173 一宮円空会で学んだ藤原正遠さんについて


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 昨日の一宮円空会で、下の写真にあるようにテキストとして、藤原正遠さんについて学びました。
 


 最初に、少し長い前置きになりますが、出典に関して記しておかなければなりません。
 藤原正遠さんについて、僕は知らなかったことから、帰宅後、インターネットで検索したら、「阿弥陀様がごいっしょです」と題されたホームページ内に「聴聞のページ(ご法話のページ)」があり、その中のひとつに「彩雲院 釈 正遠師 南無阿弥陀仏の明け暮れ」というページを見つけた。
 そこには「光源寺テレホン法話 真宗大谷派 浄秀寺 藤原正遠師 法話 掲載の法話は石川県の真宗大谷派浄秀寺の藤原正遠師が、長崎県の光源寺テレホン法話で話された内容を正遠師の許可を得て掲載しているものです」との説明があり、「四分六分の道~カボチャとすいか(39KB)」「とんぼ安心~念仏成仏是れ真宗(29KB)」というタイトルの文章(藤原正遠師の法話)が掲載されていた(参照)。
 以下はそれ(法話)を引用しつつ、読んだ感想を。

 「ご安心」
 私は若い時から、ただ心の「安心」一つが欲しかったのです。そうして今はお念仏の摂取をいただきまして安心させてもらっております。
 それは単なる個人の安心ではございません。有限の個人の安心は「賽の河原」でありまして、私の安心は有限の安心あるいは不安心をそのまま摂取して下さるところの大法界の安心でございます。
 念々、心の安らかな日もございます。また、まことに手のつけられぬ不安心、苦悩の日もございます。天気のようなものでございます。それをそのまま摂取して下さっている南無阿弥陀仏のお慈悲でございます。
 まことに、お念仏は、身も心も生み出して下さった母親をしたう子供の心でございます。子供は困れば困るほど母親を呼ぶように、実は母親が摂取に来ているのでございます。お念仏もそれと同じく、私が称えますが、実は大宇宙の大生命の根元の南無阿弥陀仏さまが、困れば困るほどご摂取に来て私にやすらぎを与えて下さるのでございます。
 ご摂取にあった私は万物がすべて阿弥陀仏のご活動体からの所産と見える眼をもらい、私はお陰さまで大安心をいただいております。
  来し方も 又行く方も 今日の日も われは知らねど み運びのまま
 は何も知りませんけれども一切が仏さまのお運びのままという歌でございます。
  生きるものは 生かしめ給う 死ぬものは 死なしめ給う われに手のなし 南無阿弥陀仏
 一切が南無阿弥陀仏のお運びでございます。これは三十年前の私の歌でございますが、今もまったくこの通りのご安心で念々一日一日生活をさせてもらっているのでございます。真にありがたいことでございます。南無阿弥陀仏

 「とんぼ安心」
 今日も又「親のこころ子のこころ」の中の『とんぼ安心』というところを読ましていただきたいと思います。
 これは、ある人の手紙でございますがそれを読んでみます。
 「ご無沙汰いたしています。いつもご教化ありがとうぞんじます。私はいつも『とんぼ安心』で救済されています。数年前当地にお越しの折りに聴聞させていただいたのです。
 先生はこうおっしゃいましたね。
 「とんぼがガラス戸に頭をぶっつけて外に出よう出ようとするが、とんぼの頭ではガラス戸を破ることが出来ない。とうとうとんぼは力尽きて死んでしまう。一生懸命に頭をぶっつけている時に後ろから仏さまが、阿弥陀さまがよんで下さる。後ろに広い世界があるよ。向きをかえなさい。
 とんぼは言う。私には後ろの世界が分かりませぬ。向きをかえることも出来ません。
 阿弥陀さまは仰せになる。そんなら私の名前をなむあみだ仏と呼びなさい、呼べば必ず向きがかえられる。
 とんぼは仰せのままにお念仏をしたら不思議に向きがかえられて、こんな広大無辺の世界のあることが知られた。
 お念仏を申すと、こんな効用(ご利益ですね)のあるものですよ」と、あれから私は四苦八苦している時に、ふっと先生の『とんぼ安心』のお話を思い出すのです。すると私の口から自ずからお念仏が流れて下さいます。
 そうして私はいつも方向を転換させてもらっています。私の身の上のこと、あるいは心の上に起こること、他人様のことなどで私が苦悩する時、私はいつもお念仏があらわれて下さって、私はいつも方向転換させてもらって私は救済されています。
 「念仏は無碍の一道」と仰せになることはこのことと了解させてもらって、ほんとうにありがたい、ありがたいお慈悲でございます。あれからお聖教を拝読いたしましてもその内容が了解されてくるのでございます。まだあとが続きますが、時間が来ましたのでこれだけにいたします。南無阿弥陀仏

 僕は少なからず法話を耳にしていますが、藤原正遠さんの法話は飾り気がなく、浄土真宗の香りがして、次々と聴きたくなる(読みたくなる)というのが第一の感想でした。

Vol.172 マクグラス著 本多峰子訳『旧約新約聖書ガイド』を読んで


 ブログ「Stay The Young (Trilogy)」をお読みいただき、ありがとうございます。

 昨夜からマクグラス著・本多峰子訳『旧約新約聖書ガイド』(教文館)を読んでいます。
 下の写真が表紙で、今朝は「第1部 序論」を読みました。
 

 『聖書』に関しての初歩的なことで、聖書の二重著者性については理解していたけれど、聖書の形成過程において、「ユダヤ人もキリスト教徒も自分たちの聖書の中身を、3つの基準で吟味した。第1が、霊感の基準である。(中略)第2に、つながりの基準がある。(中略)。第3に、受容の基準がある。(本書22ページ)」とあり、特に第2の基準について僕ははっきりと理解しておらず、改めて教えられた。
 さらに「正直に認めると、聖書を読んで理解するのは、たやすくない時もある(本書26ページ)」とあって、「聖書を読んだり理解したりしようとする時に大切なのは、自分が1人ではないということを忘れないことだ(本書26ページ)」というメッセージは、それこそ今の僕に大切なことを教えてくれた。

 以下は余談。
 今日の午後は長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会へ顔を出しました。
 

Vol.171 JRAオリジナルカレンダー2019


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 昨日の朝はウインズ名古屋へ行き、JRAオリジナルカレンダーをゲット。
 下の写真がそれで、僕はもう何年も前からずっと愛用しています。
 

 次に名古屋市内を走って、丸栄の壁面にあるモザイク(タイル画)をじっくりと目にしました。
 少し前の更新(Vol.139)で、名古屋中央教会と中日ビルのモザイク(タイル画)を取り上げたことから、丸栄のそれについても、忘れずに触れておきたい。
 下の写真がそれで、丸栄は閉店してしまいましたが、僕にとっては東郷青児のエレベーターの扉絵が印象深い場所でした。
 

 午後からは某所にて、昨日と同様、少しばかりのお手伝いをしました。
 下の写真がそれで、ペーパーカッターでカットしたそれはどうやら今日、使われるらしいです。
 

 以下は余談。
 この先の人生において起こる悪いことが今日、確定した。僕の人生は苦しみと嫌なことばかりの連続で、それでも「生かされている」のは、なぜなんだ?

Vol.170 言葉よりも行動で


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 昨日の午前中は清掃奉仕に励んできました。
 下の写真がそれで、今回が8回目となりました。
 

 午後からは下の写真にあるように別の場所へ向かい、別のボランティア活動に従事しました。
 

 先月と同様(Vol.144)、1日に2つの掛け持ちとなりました。

 以下は余談。
 休日にボランティア活動に励むなんて、ずいぶん余裕があるんだな、といった誤解を受けるといけないことから、一言付け加えておくと、今の僕は深い苦しみの渦中にあるからこそ、奉仕(善行)に励んでいるのです。果たしてそれを分かってくれる人はいるのだろうか。

Vol.169 関市洞戸円空記念館と円空上人の心を伝える会


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 以前の更新(Vol.137)でも触れましたが、昨日は岐阜県関市洞戸高賀にある関市洞戸円空記念館へ行きました。
 

 下の写真は関市洞戸円空記念館の館内で、画面左から前館長の田口様、長谷川公茂先生、円空学会常任理事の舩橋様です。
 

 下の写真は関市洞戸円空記念館に展示されている十一面観音像です(写真は許可を得て撮影しており、転載・再配布等を固く禁止します)。
 

 関市洞戸円空記念館
 岐阜県関市洞戸高賀1212番地
 開館時間 午前9時~午後4時30分
 休館日 月曜日、祝日の翌日、年末年始
 入館料 250円

 関市洞戸円空記念館を見学後、長谷川先生と舩橋様と昼食をご一緒させていただきました。
 

 円空さんを深く知る先輩方と幸せな時間を過ごして、実に楽しく、また勉強になりました。とりわけ長谷川公茂先生から今一度、信じることの大事さを教わりました。
 文末になってしまいましたが、前館長の田口様をはじめとして、関市洞戸円空記念館の関係者様には大変お世話になりました。この場を借りて、お礼申し上げます。

 以下は余談。
 関市洞戸円空記念館にて、「円空上人の心を伝える会」が発行する冊子の第1集『音楽寺の円空仏』と第2集『円空の微笑仏(一)』を販売中です。

Vol.168 神谷美恵子著作集5『旅の手帖より エッセイ集1』(みすず書房)を読んで


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 昨日の午後は神谷美恵子著作集5『旅の手帖より エッセイ集1』(みすず書房)を読みました。
 

 神谷美恵子の書いた文章をいくつも読んでいますが、やはり彼女は「いきがい」について書いたり、話したりした内容が秀逸です。
 本書の中で、僕の心に読後、深い感銘を与えてくれたのは、2つ。
 1、「生きがいを求めて」と題する高校生たちへの講演で、下の写真がその内容です。
 


 2、講演後に行われた「神谷先生をかこんで」と題する座談会の記録で、下の写真がその内容です。
 

 以前の更新(Vol.161)で触れましたが、神谷美恵子著作集6『存在の重み エッセイ集2』の中に収録された副題に「女子高生のために(講演)」とある「女性の生き方について」を彷彿とさせました。
 そして、僕も高校生の頃、神谷美恵子の講演を聴いていたら、今と少しは違っていただろうと。

Vol.167 『歴代志上』を読んで


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 先月9日の夕方から読み始めて、五章まで。翌朝に六章から二二章まで。同日の午前中から最後までと、3回に分けて読み終えた。
 『歴代志上』の内容は『サムエル記』に対応している。
 以下は要点を自分なりに整理して、備忘録とする。
  一章から九章までは長い系図。
  一〇章はサウル。
  一一章からはダビデの物語が始まる。
  一七章にダビデ契約。
  一八章から二〇章はダビデの戦い(勝利)。
  二〇章の冒頭は『サムエル記下』一一章と同じ。但し、ダビデの不名誉は省かれている。
  二二章はソロモンと神殿建設の準備について。
  二三章の冒頭は『列王紀上』一章と同じ。
  二八章と二九章はダビデからソロモンらへのメッセージ。
 

 『聖書』を読んでいると、系図へのこだわりにいつも圧倒されて、2018年の流行語になぞらえると、「半端ないって」という印象を常に抱かせる。僕個人の考えとしては、少し前の更新(Vol.162)でも触れた神谷美恵子の言葉である「どんな人間であろうとも自ら望んで生まれてきたわけではない。生まれさせられ、生かされて来たのだ」に共感を覚えるのだ。

 以下は余談。
 今朝はパソコンのBIOSのアップデートが原因で、出だしから躓き、内外に迷惑をかけた。

Vol.166 『列王紀下』を読んで


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 『列王紀下』は先月4日に読みました。
 南王国と北王国が交互に出てくるストーリーや登場人物(「ヨアシ」や「ヨシア」といった似たような人名)が込み入っていて、要点をまとめるのが難しいというのが読んだ最大の印象。
 実際、以下の内容を書くにあたって、再度、読み直す羽目(はめ)になった。しかし、理解が深まって良かったのだと。前置きが長くなってしまった。
 前回の更新(Vol.165)からの続きで、すなわち『列王紀上』の続きで、預言者エリヤからエリシャへのバトンタッチ。

 二章
 11 彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。
 

 上に続く箇所からは預言者エリシャの奇跡の数々が記されている。例えば四章の末尾に記されているのは給食奇跡の出所である。
 八章まではエリシャで、九、一〇章はエヒウ(イエフ)の活躍。
 一一章は女王アタリヤ。
 一二章はヨアシ王と祭司エホヤダ。
 一三章はエリシャの最期。
 一四章は南王国ユダのアマジャ王対北王国イスラエルのヨアシで、イスラエルが勝ち、ユダが敗れる。預言者ヨナの名が出てくる。
 一五、一六章は南北の王国が交互に描かれている。
 一七章は首都サマリヤの陥落による北王国イスラエルの最期とアッシリヤ捕囚。
 一八章からは南王国ユダの行方について。一九章から預言者イザヤが登場する。
 二二章で南王国ヨシア王の時、律法の書を発見。
 二三章から二五章(最終章)で南王国ユダの首都エルサレムの陥落とバビロン捕囚。
 『列王紀下』に登場する王たちについては、北王国イスラエルがアハブ、アハジヤからホセアまで、南王国ユダがヨシャパテ、ヨラムからゼデキヤまでとなっている。
 こうして大雑把ながらも、自分なりの要点を備忘録としておくことで、後から振り返って、大いに役立つことがある。
 最後に忘れずに書いておくと、一八章の途中から読んでいて、それまでと印象が違って来たように感じた。

 以下は余談。
 今日は12月上旬とは思えないほどの陽気で、昼下がりに自転車に乗っていて、気持ちよく感じました。

Vol.165 『列王紀上』を読んで


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 『列王紀上』は数回、読み始めたのだが、冒頭の内容で、どうにも士気が上がらず、ようやく先月1日に読み、それから1ケ月以上も経ってしました。
 

 一章
 42 彼の言葉のなお終らないうちに、そこへ祭司アビヤタルの子ヨナタンがきたので、アドニヤは彼に言った、「はいりなさい。あなたは勇敢な人で、よい知らせを持ってきたのでしょう」。

 上に引いた聖句をブルトマンは取り上げている。
 『旧約聖書』を読むにあたっては、『聖書 スタディ版』(日本聖書協会)を手引書としており、『列王紀上』では大変参考になった。それを中心にして、以下、簡単に内容をまとめて、備忘録としたい。
 三章にはソロモンの智恵と裁判のエピソードが綴られている。また、四章には箴言と雅歌について記されている。
 八章以降からシオンがエルサレムの神殿と関連付けられて表現されるようになった。
 十章にシバの女王が登場する。
 十二章からはソロモンからレハベアムにバトンタッチされて、王国の分裂がテーマとなる。レハベアムは老人たちではなく、若者たちの勧めに従った。
 『列王紀上』に登場する王を整理しておくと、ユダ(南王国)はレバアハム、アビヤ(アビヤム)、アサ、ヨシャパテで、イスラエル(北王国)はヤラベアム(ヤロブアム)、ナタブ、バアシヤ(バシャ)、エラ、ジムリ、オムリ、アハブ、アハジヤ(アハズヤ)。
 十七章の第一節に出てくる「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます」は『聖書 スタディ版』(日本聖書協会)の「聖書について」と題する解説の冒頭に「エリヤ物語の初めに見られるこの言葉は、聖書の全内容を表わしている」と記されている。
 十九章に出てくるエリヤに関する記述(1~18節)は、そのユニークさから、先々月に目を通していた。同章は『ローマ人への手紙』一一章にいくつか引用されており、また第一〇節をブルトマンが取り上げている。そして、エリシャが登場する。

Vol.164 神谷美恵子著作集3『こころの旅 付 本との出会い』(みすず書房)を読んで


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 前回の更新(Vol.163)からの続きで、昨日から今朝にかけて、神谷美恵子著作集3『こころの旅 付 本との出会い』(みすず書房)を読みました。
 

 例によって、後々の為、僕の印象に残った箇所を備忘録として記しておきたい。
 下の写真は僕の最も印象に残ったページです(152~153ページ)。
 

 下の写真は本書の結末です(192~193ページ)。
 

 本来ならば、上に挙げた写真のページを、このブログ内でも活字にするのですが、その元気がありません。
 本書で触れられていたボイテンディック『苦痛について』、多幸症、宝積経、バッハのゴールドベルク変奏曲、ベートーヴェンの弦楽四重奏といった事柄についても、新しく勉強になりました。

Vol.163 日本読書新聞「アンケート 今年の収穫」欄


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 昨日、神谷美恵子著作集3『こころの旅 付 本との出会い』(みすず書房)のページをめくっていたら、本書に収録された「本との出会い」の中で、下の写真にあるように「一九七〇年 アンケート今年の収穫」と題する短い文章が載っていた。
 

 そして、僕が高校生の頃から敬愛するAという作家の全集にも同じタイトル(「今年の収穫」)の文章があることに気が付いて、見比べてみたら、年度(一九七四年)は違えど、やはり同一(日本読書新聞)のアンケートであった。
 ちなみに、その作家Aは中原フク述・村上護編『私の上に降る雪は』(講談社)を挙げて、「ことし心から感動させられた本がこれ一冊だったというのも、さびしい話だ。しかし、一年に一冊あれば沢山だとも言える」と記している。
 さて、偶然に驚かされると同時に今日から12月ということで、上の例を引いて、僕の今年の収穫といえば、近年まれに見る豊作だったと言えよう。

 一、ブルトマン著・杉原助訳『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)
 二、ブルトマン著作集(新教出版社)
 三、神谷美恵子著作集(みすず書房)

 一と二は僕に学生時代以来となる真の読書の楽しみを思い出させてくれた。三は不思議な巡り合わせで、斯(か)くも無力な今の僕を励まし、慰めてくれている。
 一から三の契機となったのは、『聖書』であり、豊作だった裏には、多大な苦しみもあった(いまもその最中にある)ことを付け加えておきたい。
 さらに言えば、長谷川公茂先生が上梓された小冊子『荒子観音寺の円空仏』のお手伝いをしたことであろう。

 以下は余談
 今日の午前中は某所にて、インド古典舞踊家の小川さやかさんの踊りを見ました。下の写真がそれで、優美に踊る姿に異国の文化の素晴らしさを感じました。