Vol.174 藤原正遠さんと佐々真利子さんの法話を読んで


 ブログ「Stay The Young (Trilogy)」をお読みいただき、ありがとうございます。

 前回の更新(Vol.173)からの続きで、話題に取り上げた「聴聞のページ(ご法話のページ)」に「彩雲院 釈 正遠師 南無阿弥陀仏の明け暮れ」と並んで、「佐々真利子さん 念仏ひとり遊び 他」というページ(参照)があり、それを引用しつつ、読んだ感想を。

 「念仏ひとり遊び」
 私事で恐縮でございますが三月十三日は十八年前八十三才で亡くなった母の祥月命日でございます。私は六人兄弟の末っ子です。二つの時小児マヒになりまして、体中ぐにゃぐにゃになった私を「どの程度まで治るか医学では何とも云えない」と、六十年前に診断された時の母の愕きはどんなだったでしょう。それからの母は命がけで神仏に祈願し、少しでも良いと聞けばどんなことでもしてくれた様です。
 どうにか這いずり廻りながら自分のことだけは曲がりなりにも出来るようになったのですが、母は自分が死んだ後が心配になったのです。兄達の厄介になるんだがその家庭まで乱させてはならん。それには僻まんように育てなければと思ったそうです。私が物心ついた時母が云うんです。「お前は不具者なんだ片輪者なんだ、だから何かと人様のお世話になるのだから感謝の気持ちを忘れてはならん。又片輪者は人様には物珍しいのだから後指をさされるかもしれん、お前も物珍しいものは見たかろう、それと同じことだから気にせんでいいんだよ」と聞かされました。
 それでいて人様が振り向かれると母は悲しい顔をするのです。私は何かとっても親不孝してる様でその方が辛うございました。今そんなことを娘に云わなければならなかった母の悲しさを心に痛く感じます。
 又自分が死んだら話し相手がなくなるのではないかと心配した母は、一切の親様である阿弥陀仏と何でもお話しできるようになるようにと、お手次であるここ光源寺様や方々のご法座に連れて行ってくれたのです。それが恩師藤原正遠先生に三十七年もご慈育頂き、今に何かとお教え賜るご縁となったのです。
 正遠先生のお歌に
  念仏とひとり遊びのできること これを大悲とわたくしは云う
 とございますがお陰様でこのお歌を有り難く頂けることを嬉しく思います。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 前記「生まれて来てよかった」の始めの原稿、従ってこの原稿は(没とした原稿)
 散り急いだ桜の花のあとに、草木の新芽がすがしく伸びてゆく命を目に見せ心に感じさせて下さるこの頃でございます。皆様も希望に燃えてご活躍のことと思います。
 然し私は不具者ですので万物が生き生きとなればなる程、一体私は何の為に生まれて来たのか、世の為人の為どころか、自分自身を持て身体で、私の人生は何なのか、生まれて来て良かったと思う日が一日でもあるだろうか、人生の意義って何だろうか、と思い悩んだことがございます。そしてその答えは仏法様にあるようにおもいまして聴聞致しました。幸いの遇い難い師 藤原正遠先生にご縁を頂きました。
 先生から『訳が解ってお念仏するのではない、苦しく悲しく、自分で自分が始末つかなかったら、身も心も生んで下さった親を「お母さん」と呼ぶように、万物の親でまします阿弥陀仏が「我が名を称えてくれ」と喚んでいらっしゃるから「南無阿弥陀仏」とお念仏なさい、訳は仏様の方におありになるのです』と、お教え頂きました。私はなかなかそれが信じられず、お念仏が称えられませんでした。何か「これだ」というような人生の意義があるのではないか、と心密かに思っていました。
 処が仰せの通り、訳は仏様の方におありになったのでしょう。私の思い以前に先に先に善い事も悪い事も出てくるのです。
 正遠先生のお歌に
  来し方も亦行く方も今日の日も我は知らねどみ運びのまま
 とございますが、一切はみ運びだったのです。人生の意義なんて私の方には無く、訳は解らなくても仏様の方に何か訳がおありになるのでしょう。私のような者にもみ運びのお命の中に仏様のお与えのご用がすむまで、一息一息をつかせて貰ってることをお教え頂き、生まれて来てよかった、生きていて良かった、と有り難く嬉しく思っています。皆様にはご迷惑おかけしますが、どうぞよろしくお願い申しあげます。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 上に引いた2つの文章(法話)を読むと、藤原正遠さんと佐々真利子さんは素晴らしい師弟関係にあったようで、実に羨ましい。
 さらに僕の心に響いた佐々真利子さんの文章(法話)を引用しておきたい。

 「苦悩の根本」
 お恥ずかしいことでございますが、私は色々の事が気になり苦悩します。それでその苦悩の本を考えてみますと、あの人がああしたから、あれをこうしてくれたら良いのに、と自分以外のことを原因だとしているのです。
 処がよく考えてみますと、私を出発とし、中心としてる所から苦悩が始まっているのです。私に都合がわるかったのです。それで先方を私の都合のよいようにしようとするのですがびくとも動きません。先方を責めると、反発され嫌われます。こちらの苦悩は深まるばかりで、持って行く所がありません。
 そんな私の口から「なんまんだ仏」とお念仏さまが流れ出て下さって「お前は自分を中心にして苦悩してるが、お前自身で生きてるのでないのだよ、毛筋一本もお前の自由にはならないのだ、一つでも自分の思い通りにならない事があればそれが証拠なの。そうすると、思い通りになってもそれも大法界のご活動なんだ。解るかね、解らんでもそうなんだよ」というお声が聞こえて参りました。
 浅原才市様のお歌に、「私は善いことがあれば迷う、善いことがなくて仕合せなんまんだ仏」と、ございます。
 真にお念仏は私個人の根を切って下さって、大法界へ帰し摂取してそこから一切のものを見せて下さるのです。そうすると一切のものが矛盾なく、狂いなく活動していたことが教えられ安心させて下さるのです。
 相変わらず事に触れ、折に触れて泣いたり、笑ったり苦悩したりです。それがそのまんま大法界のご活動だったのです。でも苦悩は苦悩ですので大法界から大悲のみ親は「なんまんだ仏」と、お念仏となって抱いて下さるのです。
 今日も心痛いことがあってお念仏様が流れ出てくださいました。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 「聴聞のページ(ご法話のページ)」には、佐々真利子さんの「念仏ひとり遊び 他」と並んで、「お念仏は大きな海 他20話」もあり、長くなることから、次回の更新で。

 以下は余談。
 今日の午後はお地蔵様の赤い頭巾と前掛けを新しくしました。
 

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