前回の更新(Vol.82)からの続きで、『マタイによる福音書』を読んだことに対する結論は既に書きました。
以下に引いたのは僕が共感した箇所で、『ヨハネ』と『ルカ』に重複する箇所は省いてあります。
一九章
一二 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。
僕は独身で、そのことを心中で申し訳ない、と思っていることから、上に引いたようなフレーズにはめっぽう弱いのだ。前々回の更新(Vol.81)でも書いたけれど、こればかりは相手のあることであり、自分の力ではどうにもならない。
二八章
九 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
いつも不思議に思うのだが、口語訳と新共同訳では、どうしてこんなにも違うのだろうか、と。
上に挙げた二八章九の口語訳では「『平安あれ』と言われた」とあり、新共同訳では「『おはよう』と言われた」とある。
僕が口語訳を好きなのは、こういう些細な違いにある。「おはよう」ならば、平凡な挨拶だが、「平安あれ」は、いかにもイエスの声を聞いたという気がする。
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