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Vol.105 『コリント人への第二の手紙』第一~九章を読んで

以前の更新(Vol.81)にも書いたことだけれど、またもや「第二」の手紙から読んでしまった。『ペテロの手紙』も『テサロニケ人への手紙』も順番通りの「第一」からではなくて、これはもう僕の性分としか言いようがない。
 はじめにブルトマン著作集において、『コリント人への第二の手紙』の中で、何度となく取り上げられる箇所は二章一四節以下、四章七節以下、五章一六節以下、六章二節以下である。大事なことだから、忘れずに記しておきたい。
 僕個人が心を打たれ、教訓にすべき箇所は上に挙げたのとは少し違っているけれども、ブルトマンから教わったことには違いない。

 五章七節
 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

 五章七節はブルトマンの釈義によれば、人は中間段階を歩いているのであり、信仰者の終末的実存は現世的現象ではなく、新たな自己理解によって実現されるとのこと。

 七章一〇節
 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。

 「この世の悲しみは死をきたらせる」を読んだとき、確かにそうだ、と。だから、自殺する人がいる(僕はそれを責めたりしない)。


 悲しみとは2種類あることを僕は知った。これから僕は生きて行くうえで、きっと僕の受ける悲しみはどちらだろうかと考えるようになるだろう。

 以下は余談。
 今朝は午前4時前に起きて、この数日、憂鬱な気持ちで過ごしていることから、気晴らしにと、録画しておいたNHK BSの「池内博之の漂流アドベンチャー3」を見た。過去の放送も欠かさず見ているが、毎回、ヨットに乗っている気分にさせられて、実に面白い番組だ。実際のところ、船酔いの酷い僕には無理だから、尚更である。

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Vol.104 ブルトマン著「古代における光の象徴的使用の歴史」を読んで

『ブルトマン著作集8』聖書学論文集2(新教出版社)に収録されている「ペテロ第一の手紙にある告白および讃歌の断片」と「古代における光の象徴的使用の歴史」を読んだ。

 はじめに「ペテロ第一の手紙にある告白および讃歌の断片」について。
 三章一八~二二節を論じており、それに付随して、四章五節と一章一八~二〇節も取り上げられている。

 次に「古代における光の象徴的使用の歴史」について。
 光について、様々な文献資料を挙げて、その意味するところ(象徴的使用)を歴史的に論じている。

 「光と闇は永遠に交わらない」、「もはや主体も客体もなく」、「光は自分の道を見出すことを教える」。
 「肉体の目と心の目」、「見ることは触れること」、「光を媒介して見る」。
 「私が光の中にいることではなくて、私が光、すなわち不死の力を私の中に持つ」。

 いつぞやも書いたけれど、ブルトマンの古代ギリシアの詩と文学に対する教養には圧倒される。ヘロドトスはもちろんのこと、プラトンやストア、そして僕はこの論文を読んで、恥ずかしながら、プロティノスの『エンネアデス』を初めて知った。

 「自分はもはや何物も必要としないこと、それどころか、他のものをことごとく脱ぎ捨てること、その真の生命だけで満ち足りること、身にまとっている他のものをすべて放棄し、純粋に自分一人となって、真の生命になることが大切なのだということを、知る。従ってわれわれは、この地上から逃れ出ることを切に求め、われわれを他のものに縛りつけている束縛について嘆き、ついにわれわれ自身の全体をもってかのものを抱擁し(後略)本書202ページ引用」。

 文末には、礼拝空間の形態について論じてられているのだが、ギリシア神殿のような明るい日の光の中ではなく、密儀集団の祭儀は洞穴のような閉ざされた空間で行われる。キリスト教会が礼拝空間の模範としたのは、ギリシア神殿ではなく、暗さと神秘的な光とを伴った、密儀の閉ざされた礼拝空間であった、と指摘されているのを読んで、思わずハッとさせられた。
 最後に、注釈に目を通していたら、「足」の字が横向きになっているのを見つけた。下の写真がそれで、もしこれが人間だったら、お行儀が悪いと叱られるでしょうね。


Vol.103 『ブルトマン著作集13(神学論文集3)』を読んで

『著作集13(神学論文集3)』に収録されている論文の内、とりわけ参考になり、勉強になったのが「新約聖書における啓示の概念」と「新約聖書における歴史と終末論」である。
 「新約聖書における啓示の概念」では、『コリント人への第二の手紙』の前半(6章10節まで)について、解釈がなされていた。
 「新約聖書における歴史と終末論」では、ブルトマンが決まって取り上げる『聖書』の箇所(これについては前々回の更新を参照)がコンパクトにまとめられ、記されていた。


 『聖書』と照らし合わせながら、『ブルトマン著作集』を読んでいる時間は、この世での嫌なことを忘れさせてくれるから、実に幸せだ。

 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(『ヨハネによる福音書』16章33節)。

Vol.102 『聖書』のブックカバー

以前の更新(Vol.31)にて、ZARAで買い物をした際の紙袋を『聖書』のブックカバーに再利用したと書きました。
 下の写真がそれで、毎日、手にしていたことから、ボロボロになってしまい(画面左上)、今朝、新しいものを作って(画面右下)、交換しました。


 今まで使っていたものは色も少しばかり黒くなってしまい、新しいものは紙の手触り感が全く違い、手に持っていて、気持ちが良いです。
 『聖書』のブックカバーに紙袋の、それも再利用なんて、けしからん、という声が聞こえてきたら、僕は大いに反論したい。『聖書』のブックカバーは革製だったり、ファスナー(チャック)やボタンで留めたりといった端正で、高級なブックカバーが主流のようですが、それに僕はいつも違和感を覚えています。質の優れたブックカバーは長く使えるなどの利点があるのかもしれない。大切な『聖書』を大事にすることは、当たり前のことですが、聖職者でもない僕にはそうしたブックカバーは似合わないし、紙の資源を再利用することの、どちらが(キリスト教的に)正しいと言えるのか、誰か教えて欲しい。

 買う者は持たないもののように(『コリント人への第一の手紙』七章三〇)

Vol.101 ブルトマンにおける『聖書』からの引用

101回目の更新ということで、今回からまた生まれ変わったようなつもりで書きたい。そう思って、ふさわしい話題を探そうとしたら、ごく身近にあったことに気が付いた。


 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(『コリント人への第二の手紙』第5章第17節)

 上に挙げた箇所は、ブルトマンを読んでいると、盛んに引用されている。それだけ、大事な箇所なのであろう。そうした箇所は、他にもいくつかあり、以下に列挙して、僕の備忘録としたい。

 『ヨハネによる福音書』
 五章
 二四 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである(『ヨハネの第一の手紙』三章一四も同様)。
 八章
 一二 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
 一六章
 三三 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

 『コリント人への第一の手紙』
 七章
 二九 兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、
 三〇 泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、
 三一 世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。

 『ガラテヤ人への手紙』
 四章
 四 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。

 『ピリピ人への手紙』
 三章
 一二 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
 一三 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、

 上記の他にも、ま…