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Vol.61 『エレミヤ書』第一~三二章を読んで

今月上旬(4日~7日)に該当の章を読みました。
 例によって、僕の心に響いた言葉を挙げておきたい。備忘録として。

 二章
 三二
 おとめはその飾り物を忘れることができようか。
 花嫁はその帯を忘れることができようか。
 ところが、わたしの民の、
 わたしを忘れた日は数えがたい。
 三三
 あなたは恋人を尋ねて、
 いかにも巧みにその方に足を向ける。
 それゆえ悪い女さえ、あなたの道を学んだ。

 六章
 一九
 地よ、聞け。見よ、わたしはこの民に災をくだす。
 それは彼らのたくらみの実である。
 彼らがわたしの言葉に気をつけず、
 わたしのおきてを捨てたからである。

 一四章
 一九
 あなたはまったくユダを捨てられたのですか。
 あなたの心はシオンをきらわれるのですか。
 あなたはわれわれを撃ったのに、どうしていやしてはくださらないのですか。
 われわれは平安を望んだが、良い事はこなかった。
 いやされる時を望んだが、かえって恐怖が来た。

 一五章
 五
 エルサレムよ、だれがあなたをあわれむであろうか。
 だれがあなたのために嘆くであろうか。
 だれがふり返って、あなたの安否を問うであろうか。

 二三章
 二四
 主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。

 三一章
 三一
 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。


 実際には、上に挙げた箇所の3倍くらいあるのだが、割愛した。
 『エレミヤ書』といえば、第三一章三一節から三四節で、契約について記されており、それが取り上げられる。
 三三章以下と『エレミヤ書』を読んだ感想については、次回の更新で。

最近の投稿

Vol.60 荒子観音寺の円空仏の新しい小冊子(パンフレット)

3月末の第一声から、紆余曲折を経て、先週末、無事に上梓しました。
 下の写真が小冊子の表紙で、内容は10年先、20年先、30年先を見据えたものを目指しました。


 舞台裏は以前の更新(Vol.25、Vol.27)でも書きましたが、長谷川公茂先生の責任編集であれば、伝家の宝刀か、あるいはテレビドラマ「水戸黄門」の印籠と同じ、と言っても過言ではないはず。
 小冊子はオールカラーページで、頒布価格が1000円。実際に手に取っていただければ、分かるのですが、かなり安い(お得)と。もちろん、長谷川先生の解説付き。
 陰ながら、お手伝いができた僕は円空さんの勉強ができて、実に幸せでした(これは今だから言えるセリフで、一時はどうなることやら、不安でいっぱいでしたが、円空さんの心を伝える長谷川公茂先生をお手伝いするのは僕の役目だ、と)。 

 以下は余談。
 昨今、『聖書』を読んでいる僕は不意に『ヨハネによる福音書』の第16章第21節を思い出しました。
 「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。」

Vol.59 ブルトマン著「アダムよ、あなたはどこにいるのか」(1948年)を読んで

前回の更新(Vol.58)からの続きで、昨日読んだ『ブルトマン著作集 12 神学論文集 2』に収録されている論文「アダムよ、あなたはどこにいるのか」について、以下の引用は僕の備忘録である。

 「旧約聖書の文献には、(実際、他のオリエントの文献と同じように)人間の運命や人間の苦悩についての非常に多くの言葉が鳴り響いており」

 「他のオリエント、あるいはギリシアの文学に見いだされる。人間が、なんらかの意味や利点を認識することができないで、身をさらされている宿命の渦巻く変遷に対する嘆きは、つねに、くりかえしてひびきわたる。個々の声の固有なるひびきは、全体の合唱のなかで消えうせていく。あたかも波の特別な形が、大海の一様なうねりのなかに消えうせるように」

 「歴史のなかで人間は、その決断と運命とによって、自己の独自性を獲得する。それゆえに、人間の固有の生は、個別的なもの、そのつどの出会いの領域において、生ずる。そのつどの決断(それが行動への決断であろうと、運命にむかって自己を開くか、閉じるかの意思であろうと)」

 「さらにまた、人間は、この世では、旅人、寄留者として歩んでいるのであり、人間の生が、そこで演じられる歴史的な出会いは、どのひとつをとってみても」


 上に挙げた引用は僕が「アダムよ、あなたはどこにいるのか」を読んで、テキストに線を引いた箇所である(やっぱりブルトマンの聖書解釈は凄いな、と。読んで、興奮させられる)。
 『聖書』はずっと昔に書かれたはずなのに、時空を超越して、現代に生きる人たちへ、そして、僕に向かって、こうして呼びかける。「あなたはどこにいるのか」と。

 以下は余談。
 今朝は午前3時過ぎに起床。今、これを書いている午前4時過ぎ、外では鳥たちの鳴き声がうるさいくらいだ。窓から見ると、東の空から光が差してきて、木々や電柱、アンテナが赤く染まっている。

Vol.58 「ブルトマン著作集 12 神学論文集 2」を読みました

今日は『ブルトマン著作集 12 神学論文集 2』(新教出版社)に収録されている2つの論文「律法の終りとしてのキリスト」と「アダムよ、あなたはどこにいるのか」を読みました。
 どちらかと言えば、「律法の終りとしてのキリスト」について、大いに期待を寄せつつ、読み始めたまでは良かったのですが、内容がいささか難しくて、理解度は6~7割といったところでしょうか。それでもブルトマンは大切なこと(肝心なこと)は繰り返し述べることから、僕も何度でも読み返したいと思います。
 反対に、「アダムよ、あなたはどこにいるのか」については、ざっとページをめくった際、『聖書』の内容に逐一、立ち返ることが少なくて、残念に思っていました。しかしながら、結果的に僕の知りたかったことが、(僕が今まで読んだ他の論文と少し違って)情緒的な表現で記されていたことから、読後の満足感は大きかったです。


 以下は余談。
 今夜は熱い風呂に入って、気分がリフレッシュできました。

Vol.57 日本キリスト教団出版局と新教出版社とキリスト新聞社

『聖書』を軸にブルトマンの著作集をはじめとするキリスト教に関係する本を数多く読むようになった。中でも、日本キリスト教団出版局と新教出版社の本に目を通している(後で気が付いたら、キリスト新聞社の本も)。
 クリスチャンではない人で、これだけ多くのキリスト教に関係する本を読んでいるのは、もしかしたら僕だけかもしれない。何だか神学部の学生になったみたいだ。
 以前お世話になった古今書院といい、素晴らしい本を作っているところが、まだいくつもあることを再認識した次第。出版不況の原因の一つは、いわゆる大手と呼ばれる出版社や流通(日本出版販売とトーハン)、新聞等の書評に問題があるのではないのかと思ってしまう。
 下の写真は新教出版社の出版通信で、今から21年前と、こんなに古いのは当の新教出版社にも、ひょっとしたら残っていないのではないか。


 1997年と言えば、僕は28歳で、前年に自動二輪の免許を取得して、バイクであちらこちらへと足を運ぶようになった頃だ。