Vol.208 『ブルトマン著作集9』聖書学論文集3の2つの論文を読んで


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 過日、『ブルトマン著作集9』聖書学論文集3(新教出版社)に収録された2つの論文「解釈学的方法としての予型論の起源と意味」と「原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係」を読みました。
 


 以下は2つの論文の備忘録として、はじめに「解釈学的方法としての予型論の起源と意味」を取り上げる。

 旧約聖書が報告している人物、出来事、あるいは制度の中に、イエス・キリストの到来によって開始された救済の時が持つそれらに対応する人物、出来事、あるいは制度の「予めの写し」「前もっての叙述」を見出す解釈である。予型論としての表示の仕方はパウロに遡る。すなわち彼は、ローマ五・一四において、アダムをキリストの予型とし、第一コリント一〇・六において、荒野の彷徨の時代のイスラエル人たちをキリスト者の予型として表示している(本書3ページ)

 「個々の予型論的な解釈は、新約聖書のそこそこに見いだされる(13ページ)」とあることから、ここではいちいち言及しない。例えば、第二コリント三・七以下やヨハネ三・一四から一五、使徒行伝三・二一~二二などが取り上げられ、ブルトマンによる解釈がなされていた。
 次に「原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係」について。
 前半はブルトマンが主張する史的イエスとキリスト・ケーリュグマについて論じられている。史的なナザレのイエスと主であるキリストの連続性について論じた箇所(127~128ページ)を読んでいたら、ブルトマンが僕に対して、イエスとは誰かを教えてくれている、そんな気がした。後半の論調に関しては、やや難解で、僕の思考力では到底まとめることができなかった。しかしながら、文末の結論には一筋の光を見た。少し長文になるけれど、下に引用しておく。

 すなわちケーリュグマの担い手としての教会に対する信仰とは、復活信仰なのであり、その信仰は、ケーリュグマにおいてイエス・キリストが現在しているのだという信仰の中に存在するのである。わたしのケーリュグマの解釈によれば、イエスはケーリュグマの中へと復活したことになる、ということが、わたしに対する批判の大部分としてしばしば言われる。わたしはこの命題を認める。それは、それが正しく理解されるということを前提にすれば、全く正しいのである。その命題は、ケーリュグマそのものが終末論的出来事であることを前提としており、さらにイエスはケーリュグマにおいて現実に現在していること、そして、ケーリュグマにおいて聞くものに出会うのは彼の言葉であること、を意味している。そうだとすれば、復活者の存在様式に関するすべての思弁や、空の墓についてのすべての物語、さらにすべての復活伝説は、たとえそれがいかなる史的事実としての契機を含んでいようともまたそれらの象徴的内容においていかに真実であったとしても、どちらでもよいことになる。ケーリュグマにおてい現在するキリストを信仰することが、復活信仰の意味なのである(本書151ページ)。

 以下は余談。
 昨日の午後は期日前投票へ行きました。

Vol.207 『バルナバ書(バルナバの手紙)』を読んで 日本語翻訳付


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 『ディダケー(十二使徒の教訓)』 に続き、過日(26日)、『バルナバ書(バルナバの手紙)』を読んだ。
 『バルナバ書(バルナバの手紙)』の翻訳に関しては、荒井献編『使徒教父文書』(講談社文芸文庫)と三小田敏雄「バルナバの手紙」(東海大学紀要)を参考にした(参照)。
 『バルナバ書(バルナバの手紙)』は全二一章から成るが、都合により、一から八章、九から二一章と2回に分けて読んだ。個人的には九章以降が面白く感じた(特に一二章と一五章)。
 さて、ブルトマンによれば、『バルナバ書』は以下の箇所に示されており(下の写真は目次で、著作集3巻139ページ、著作集5巻94ページ)、内容をAからFの六つに整理した。
 


 A 旧約聖書の問題を主題的に扱っており、キリスト教信仰とその「知識(グノーシス)」に初めて開示された旧約聖書の正しい理解を教えようとしている。
 B もっと重要で特色のあるのは「信仰」と「知識」の関連である。著者は読者に向かって「あなたたちが信仰に従って、完全な知識を得るために」この手紙を書いたと言う(一章五節)。「知識」の対象は「義の道」である(五章四節)。
 C 旧約聖書はまたキリストとキリスト教の救いとの預言を含んでいる(五章から八章)。
 D 道徳的指示(九章と十章)。
 E キリスト者の現在の存在は、すでに新しい存在である(一六章九節)。
 F (ディダケーと同じく)ユダヤ教の教理問答を受け入れている(一八章から二一章)。

 AとBの項目に関しては、『バルナバ書(バルナバの手紙)』を読むと、まるで旧約聖書に記されていた事柄の解説書を読んでいるようだ。『バルナバ書』を読んだ後、旧約聖書を再読したくなった(確かめたくなった)。
 Fの項目に関しては、一八章から二〇章は『ディダケー』の一章から五章までと内容が重なっている。僕は一七章の最後が本来の結びであると感じた。

 先に読んだ『ディダケー』は道徳訓であるからして、役に立つこともあるだろう半面、退屈だったが、それと比較して、『バルナバ書(バルナバの手紙)』は総じて面白く感じた。

Vol.206 『ディダケー(十二使徒の教訓)』 を読んで 日本語翻訳付


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 過日(25日)の午後、荒井献編『使徒教父文書』(講談社文芸文庫)に収録されている『ディダケー(十二使徒の教訓)』 を読んだ。
 読み始めてすぐに「誡命」という単語が出てきて(訳者なりの意図があるだろうし、僕に学がないことから)、意味が分からず、大いに戸惑った。どうやら文語訳の聖書に出てくる言葉らしいことが分かったので、それと対比してみると、口語訳では「戒め」、新共同訳では「掟」となっていた。
 

 さて、本題に入って、ブルトマンの論文においては、使徒教父文書と呼ばれるそれらのうち、『ディダケー』はある程度引用がされている。
 ざっと調べただけでも、1;2~6、2;2、2;7、3;2、3;4、3;8~9、4;1~3、4;6、4;9~11、4;13~14、5;1~2、6;2~3、7;1~3、8;1~2、9;2~5、10;2~6、11;1~13、12;3、13;1、14;1~2、15;1、15;3、16;1~8が取り上げられていた。
 僕が『ディダケー』を読んで、最も印象深かったのは三章10節の「あなたの身にふりかかる事柄は、神なしには何ごともおこらないということを認識して、よいものとして受け取りなさい」である。
 ブルトマンは、『ディダケー』について、以下のように記している。

 前半ではユダヤ教の改宗教理問答が利用されている。それは「二つの道」の図式による道徳的訓戒と禁令を含んでおり、著者は主の言葉をその間に挿入することで内容を豊かにしている。素朴な応報思想がこれらの訓戒を支配しており、文書の結びでは来るべき審判が指し示められて(後略)『ブルトマン著作集5巻』94ページ引用。

 最後に、かなり長文になるけれども、『ディダケー(十二使徒の教訓)』 の全文翻訳をインターネット上に見つけたことから、参考のために引用(コピペ)しておく(参照元)。

 第一章 1~6節
 1 二つの道が存在する。いのちの道と死の道であり、両者の違いは大きい。
 2 いのちの道とはこれである。まず、あなたを創造された神を愛すること、そして二番目に、自分自身のように隣人を愛することである。さらに、あなたが他の人にしてほしくないことを、他の人にしないことである。
 3 さて、こういった言葉の説かんとするところはこれである。あなたを呪う者を祝福し、自分の敵のために祈り、あなたを迫害する者のために断食をしなさい。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の得るところがあるだろう。異邦人でも、同じことをしているではないか。しかしあなたは自分を憎む者を愛しなさい。そうすれば、あなたには敵がいなくなるであろう。肉的なむさぼり、かつ情欲を避けなさい。もし誰かがあなたの右の頬を打ったなら、左の頬をも向けなさい。そうすれば、あなたは完全な者となる。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。もし誰かがあなたの下着を取ったなら、あなたの上着をもやりなさい。もし、誰かがあなたの所有物を奪ったのなら、それを返すように強いてはならない。というのも、それはあなたにはできないことだからだ。誰であれ求めてくる者には与え、拒んではならない。なぜなら、御父は御自身の賜物をすべての人に与えようと望んでおられるからだ。掟に従って、人に与える者は幸いである。なぜなら、その者は潔白とされるから。悲しいかな、それとは反対に、ものを受け取る者は。というのも、もし困窮した状態でものを受け取るなら、その人に咎はない。しかし困ってもいないのにむやみに受け取るような人は、なぜそれを受け取ったのか そして何の目的でそれを受け取ったのかに関し、申し開きをしなければならない。さらに保留の身となったこの者は、これまでしてきた行ないに関する取り調べを受け、最後の硬貨を返済するまで釈放されることはない。これに関して、次のような言い回しがある。誰に与えるかを本当に決めてしまうまでは、施し用のお金は自分の手の中に汗がにじむまでじっと握っていよ。
 第二章 1~7節
 ディダケーの二番目の掟はこれである。殺してはならない。姦淫してはならない。子どもたちを堕落させてはならない。不品行をおこなってはならない。盗んではならない。占い師の所へ行ってはならない。魔術をおこなってはならない。中絶によって子どもを殺してはならない。胎児殺しをしてはならない。あなたの隣人のものをむさぼってはならない。偽証してはならない。また誰かを不当に訴えてはならない。悪口を言ったり、恨みを抱いたりしてはならない。二心であってはならないし、二枚舌を使ってもいけない。というのも、二枚舌は死の罠だからだ。あなたの言葉に偽りがあってはならないし、また口先だけのものであってもいけない。そうではなく、あなたの言った通りに、実行しなさい。貪欲であったり、強欲であったり、偽善的であったり、悪意があったり、高ぶったりしてはならない。あなたの隣人に悪を企ててはならない。誰をも憎んではならない。しかし、幾人かの人に関してはこれを戒めたり、祈ったりすべきであるし、また幾人かの人に対しては、あなた自身のいのち以上にこれを愛すべきである。
 第三章 1~10節
 わが子よ。悪および、悪の様相を帯びているいかなるものからも離れなさい。自分の激情に支配されるままになってはいけない。なぜなら、これはやがて殺人につながっていくからだ。また人をうらやんだり、口論したり、短気であってもいけない。というのも、殺人はこういった事から生まれるのだから。わが子よ、情欲の燃えるがままにしておいてはいけない。これが性的不道徳につながるからだ。そして、みだらな言葉を口にしてはいけない。また高飛車な目で見てもいけない。というのも、こういったことが姦淫につながるのである。わが子よ。占いに興じてはならない。これは偶像礼拝につながる。また魔術師になったり、占星術や厄払い等にかかわってはいけない。それらを見ようと思ってもいけない。なぜなら、見ることから偶像礼拝ははじまるからだ。わが子よ。嘘つきになってはいけない。なぜなら、嘘をつくことは泥棒のはじまりだからだ。お金に執着してはならず、虚栄に走ってはならない。こういったものも人を盗みへとかりたてていくからだ。わが子よ、不平不満を言う人になってはいけない。それは結局、神への冒涜となるのだ。わがままであってはならず、悪い考えを心に抱いてもいけない。なぜなら、このようにして神への冒涜は始まっていくのだから。柔和な者でありなさい。なぜなら、柔和な者は地を受け継ぐのだから。また忍耐強く、寛容でありなさい。悪を避け、やさしく善良でありなさい。またおそれおののいて、あなたの聞いた言葉を常に心に留めていなさい。高ぶらず、また横柄な行為で出てはならない。高慢な人々の仲間にならず、正しく謙遜な人々と共に歩みなさい。神を離れては何事も起こり得ないということを心に留めつつあなたの人生に起こる事全てを、良きものとして受け入れなさい。
 第四章 1~14節
 1 わが子よ。あなたに御言葉を説き明かしてくれる方のことを昼も夜も覚え、主を敬うように、この方を敬いなさい。なぜなら、主の教えが語られるところに、主は御臨在されるからである。そして毎日、敬虔な聖徒と一緒にいるように努めなさい。そうすれば、こういった聖徒の語る言葉のうちに安らぐことができるだろう。分裂を起こそうともくろむのではなく、むしろ、いさかいを起こしている人々の間に和解をもたらすようにしなさい。公平に物事を裁きなさい。罪をとがめることに関しては、誰をも片寄りみてはならない。何をすべきで、何をすべきでないのか、こういった事に関して、あなたは優柔不断であってはならない。
 5 何かをもらう際には手を伸ばしながら、いざ自分が与える側となるや、その手を引っ込めるような者になってはいけない。もしあなたに支払えるだけのお金があるのなら、自分の罪とがのための償い金を払いなさい。その際、いやいや不平をこぼしながら支払ってはならない。というのも、あなたは、自分に報いてくださる良き報い主がどなたであるかを知っているからだ。あなたは貧しい人々から目を背けてはならない。そうではなく、何ひとつ自分の物だと主張することなく、すべての物をあなたの兄弟と分かち合いなさい。もし私たちが永遠のものを共に共有する者とされているのなら、この世のものはなお一層のこと、共に分かち合うべきではないだろうか。
 9 しつけに際し、あなたの息子や娘に手を差し控えてはならず、むしろ、子どもたちの小さい時から、神への畏れを教えなければならない。あなたは、自分が苛立っている時に、しもべや召使に命令を下してはならない。彼らとて、同じ神に望みを置いている人々なのだ。そうでないと結果的に彼らは、あなたがた両方の上に君臨しておられる神を畏れなくなるだろう。なぜなら、神は人の社会的地位いかんによってではなく、御霊によって備えられた人々を召してくださっているからだ。そしてしもべたちよ。あなたがたは、自分の主人のことを、神を象徴するものとし、恐れと尊敬の念をもって彼に従いなさい。
 12 あなたは、あらゆる偽善、そして主を喜ばせないもの全てに対し、これを忌み嫌わなければならない。主の掟をないがしろにせず、これまでに受けた教えをそれに付け加えることもせず、また取り除くこともせず、守りなさい。教会では、あなた自身の犯してしまった咎・過ちを告白しなさい。やましい心を持ったままの状態で、祈りにのぞんではならない。以上、これがいのちの道である。
 第五章 1~2節
 1 一方、死の道はこうである。まず、それは邪悪である。そして、のろい、殺人、姦淫、情欲、不品行、盗み、偶像礼拝、魔術、妖術、強盗、偽証、偽善、二心、詐欺、高慢、悪意、頑迷、貪欲、卑劣な言葉、嫉妬、無礼、高ぶり、傲慢、こういったものに満ちている。2 また、それは善なるものへの迫害者であり、真理を憎み、偽りを愛するものである。またそれは義人への報いなどお構いなしで、善や正しい裁きといったものに対しても節を守ることをしない。また、それは善を行うためではなく、その反対に、邪悪な目的のためにあくせくと不眠の夜を過ごす。さらに、それは、柔和さや忍耐といったことからはほど遠く、無益なことを愛し、見返りを求めている。またそれは貧しい人々に対する憐れみがなく、虐げられ労苦している人を助けることをせず、彼らを創造された方のことを顧みることすらしない。また、それは子どもたちを殺し、神の被造物を破壊し、困窮にある者をないがしろにし、貧しい者をしいたげている。さらに、不当にも富める者に手を貸し、貧しい者を不正に裁いており、徹頭徹尾、罪に染まっている。わが子よ。あなたがたが、これらすべてのものから、救い出されんことを。
 第六章 1~3節
 誰も、この教えの道からはずれた方向へとあなたを欺き導いていくことのないように気をつけなさい。なぜなら、こういった教えを説く者は、神より離れた者であるからだ。もしあなたが主のくびきをことごとく背負うことができるなら、あなたは完全な者となるだろう。しかし、もしそうすることが難しいのなら、自分のできる範囲でそれを実行しなさい。肉に関してであるが、これも自分のできる範囲で、主のくびきを負いなさい。しかし、偶像にささげられた肉は、なんとしてでも避けなさい。なぜなら、そういった肉を食べることは、死せる神々への礼拝に他ならないからだ。
 第七章 1~4節
 バプテスマ(洗礼)に関してであるが、以下のようにバプテスマを施しなさい。今までに述べてきた事をことごとく復唱した後、御父、御子、御霊の名によって、流れている水の中でバプテスマを授けなさい。もし流れている水のない所にいるのであれば、それ以外の水の中でバプテスマを施しなさい。冷たい水を使用することができないのなら、温水を使いなさい。そしてもしそのどちらも不可能なら、御父と御子と御霊の名によって、バプテスマを受ける人の頭に三回水を注ぎかけなさい。また、洗礼式の前に、バプテスマを施す人とバプテスマを受ける人は共に断食すべきである。この二人の他にもそうできる者がいれば、共に断食しなさい。バプテスマ予定者には、洗礼式の一日か、二日前に断食をするよう指導しなさい。
 第八章 1~3節
 1 あなたがたの断食は、偽善者たちのそれであってはならない。というのも、彼ら偽善者たちは、月曜日と木曜日に断食しているのだ。しかしあなたがたは水曜日と金曜日に断食しなさい。2 偽善者たちのように祈るのではなく、主が福音の中で命じておられるように祈りなさい。以下のように祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」。3 一日に三回、このように祈りなさい。
 第九章 1~5節
 聖餐式に関してであるが、以下のように感謝をささげなさい。まず、聖餐のぶどう酒を受けて。われらの父よ、あなたのしもべであるダビデの聖いぶどうの木ゆえに、あなたに感謝します。これをあなたは、ご自身のしもべであるイエスを通して私たちに知らしめてくださいました。とこしえまでもあなたに栄光がありますように。裂かれたパンに関して。われらの父よ、あなたが、ご自身のしもべであるイエスを通して、いのちと知識を私たちに知らしめてくださったことを、感謝します。とこしえまでもあなたに栄光がありますように。この裂かれしパンは、山々の上に散り散りになっていましたが、再び元に集められ、一つになりました。ですから、それと同様に、あなたの教会を地の果ての至る所から引き寄せ、あなたの御国へと導いてください。なぜなら、全ての力と栄えは、イエス・キリストを通し、とこしえにあなたのものだからです。主の御名によってバプテスマを受けた者以外、聖餐の食事をとったり、飲んだりするのを許してはならない。主もこの事に関して次のようにおっしゃっている。「聖なるものを犬に与えてはいけません。」
 第一〇章 1~6節
 お腹が満たされた後、このように感謝をささげなさい。「あなたはご自身の聖い御名が私たちの心に宿ることをお許しになりました。また、あなたのしもべであるイエスを通して、知識と信仰そして不死について、私たちに知らしめてくださいました。それゆえに、聖なる父よ、私たちはあなたに感謝をささげます。とこしえまでも、あなたに栄光がありますように。全能の主よ、あなたは、ご自身の御名ゆえに、すべてのものをお造りになりまた。 そして、人間に楽しみを与えようと、食べ物や飲み物を与えてくださいました。それによって、人があなたに感謝をささげるためです。しかし私たちに対しては、あなたは、御自身の御子を通し、霊的な食べ物や飲み物、そして永遠のいのちを与えてくださいました。そして何より、あなたの御力ゆえに、あなたに感謝をささげます。とこしえまでも、あなたに栄光がありますように。どうか、主よ、覚えてください。あなたの教会が、あらゆる悪より救い出され、あなたの愛のうちに完全に整えられんことを。そしてその聖さのうちに教会を四方の風より、あなたの備えられた御国のうちに集めてくださらんことを。力と栄えはとこしえにあなたのものだからです。恵みを来たらせ、この世を過ぎゆかせたまえ。ダビデの神にホサナ。聖い人がいるなら、その者を来たらせよ!もしそうでないのなら、彼が悔い改めんことを。マラナタ、アーメン」。預言者たちが、心ゆくまで感謝をささげることを、ゆるしなさい。
 第一一章 1~12節
 1 それゆえ、誰であれ、前述した全てのことを教えに来るなら、その人を迎え入れなさい。しかし、その教師自身が堕落しており、上述の教えを破壊するような別の教えを説いているのなら、この教師の言うことに耳を傾けてはならない。しかし、もしこの人の動機が、義および主を知る知識を増し加えることにあるのだったら、主を迎えるように、この人を迎えなさい。
 3 使徒や預言者に関しては、福音の掟に従って行動しなさい。あなたのところに訪ねて来る使徒に対しては、主を迎えるように、この人を迎えてあげなければならない。しかし、一日以上滞在させてはならない。もし何か必要があるのだったら、二日滞在することもあろう。しかし、もし彼が三日間滞在したのなら、この人は偽預言者である。また、使徒が発つ時、晩の宿泊先に着くまで、パン以外のいかなる物も受け入れさせないようにしなさい。しかし、もし彼がお金を無心するなら、この人は偽預言者である。
 7 御霊によって語っている預言者を試したり、この人と議論したりしてはならない。なぜなら、人はどんな罪も赦していただけるが、(聖霊に逆らうという)この罪だけは赦されないからである。しかし、御霊によって語るからといって、皆が皆預言者であるとは限らない。ただ、主のご性質をあらわすような生き方をしている人だけがそれに相当するのだ。それゆえ、彼の生き方によって、あなたがたは、この人がまことの預言者なのか、偽りの預言者なのか見分けることができる。御霊にあって、食事を注文しているような預言者は、これを食べるべきではない。もしそうでないなら、彼は偽預言者である。真理を教えながらも、教えている本人がそれを実行していないなら、その人は偽預言者である。たとえ、ある預言者 吟味に受けた上で、真実な者とされているが、教会の中で世的な儀式を行なっているとしても、この人が同じことをするよう、他の人に説いていない限り、彼は裁かれるべきではない。なぜなら、いにしえの預言者たちと同様、この人を裁くのは神であるからだ。しかし、誰であれ、御霊によって、「お金か、もしくは何か他の物をください」と言うような者に対しては、耳を貸してはならない。しかし、困窮にある誰か他の人々のために、そう頼んでいるのなら、誰も、この人を裁いてはならない。
 第一二章 1~4節
 主の御名によってやって来る全ての人を受け入れなさい。しかしその後、あなたがたはこの人について吟味し、この人の人格を見極める必要がある。というのも、あなたがたには真偽を見分ける識別力があるからだ。もし訪問者が、旅人なら、できる限り、彼を助けてあげなさい。しかし、よほど差し迫った必要がない限り、彼はあなたの所に二日、三日以上滞在することはできない。しかし、もし職人である彼があなたの所に留まりたいというのなら、彼は働き、自分の糧を得るべきである。しかし、もし仕事がないのであれば、あなたがた自身の判断によって、彼に仕事を提供してあげなさい。あなたがたの間で、クリスチャンが怠惰に生活することのないためである。しかしもし彼に働く気がないのであれば、この人はキリストを利用する悪徳商人である。こういう類の人に気をつけなさい。
 第一三章 1~7節
 しかし、あなたがたの間に住むことを願っている真の預言者に対しては、食べ物を提供してしかるべきである。同じように、真の教師は、働く者同様、食べ物を受けるに値する。それゆえ、ぶどう搾り器や脱穀場でとれた初物、雄牛や羊の初子をとり、初穂として、預言者たちにささげるべきである。なぜなら、こういった人々はあなたの大祭司であるからだ。一方、預言者がいないのであれば、それらを貧しい人々にあげなさい。パンを作ったのなら、掟に従って、最初のパンをささげなさい。それと同じように、ぶどう壺や油壺を開けた際には、まずそれらの初物を預言者にささげなさい。お金や服、その他、あなたがたの所有物に関しても、掟にしたがい、一番良いと思われる部分を初穂としてささげなさい。
 第一四章 1~3節
 主日に集まることに関してであるが、パンを裂き、聖餐を執り行いなさい。ただし、その前に、自分の罪・とがを告白しなさい。そうすることで、あなたの捧げ物は清められるだろう。しかし、同胞信者といさかいを起こしている者は、和解するまで、集会に加わることはできない。それによってあなたがたの捧げる犠牲が汚されないためである。なぜなら、これらはまさに主の語られた言葉であるからだ。「すべての場所で、あらゆる時に、きよい犠牲をささげなさい。わたしは偉大な王であるからだ。わたしの御名は、異邦人の間で輝いている」と主は仰せられた。
 第一五章 1~4節
 1 それゆえ、主にある者と呼ばれるに値し、柔和で、金を愛する者ではなく、誠実で定評のある、そのような監督や長老を任命しなさい。なぜなら、彼らはあなたがたに対し、預言者や教師たちとしての働きをも務めるからである。。それゆえ、彼らを軽んじてはいけない。なぜなら、この人たちは、預言者や教師と共に、あなたがたの間にあって尊敬に値する人々だからだ。
 3 そしてお互いにたしなめる際にも、怒ってそうするのではなく、福音書にあるように、あくまで平安のうちにたしなめるべきである。そして、隣人に対して不当な扱いをしている人とは誰も口をきいてはならないし、この人が悔い改めるまでは、彼はあなたがたからの音信を一切受けてはならない。また、祈りや施し、その他全ての行ないにおいて、私たちの主の福音に見出される通りに実践していきなさい。
 第一六章 1~8節
 1 あなたがたの人生の歩みによくよく注意していなさい。あなたがたの灯りが消えてしまうことのないよう、また、腰の帯を緩めることがないようにし、備えていなさい。というのも、私たちの主が来られる時をあなたがたは知らないからである。ひんぱんに集まり、あなたがたの魂にとって益となることを求めなさい。なぜなら、最後の時に、完全な者として見出されない限り、これまで歩んできた、あなたがたの信仰の全道程は、あなたがたにとって益とならないからである。3 終わりの時には、偽預言者や誘惑者が増え、羊は狼となり、愛は憎しみへと様変わりしていくであろう。不法がはこびるので、彼らは互いに憎み合い、迫害し、裏切るようになるだろう。そしてこの世の惑わし者が、神の子を装って、現れるだろう。この惑わし者はしるしと奇跡を行ない、地はこの惑わし者の手に引き渡されるだろう。そして歴史が始まって以来、いまだかつてなされたことのないほどの不品行の数々を、この惑わし者は行なうだろう。それから人類は火のような試練の中を通らされ、その結果、多くの者は、つまずき、滅んでいくだろう。しかし、この災禍のただ中にあって、自らの信仰にとどまり続ける者は、救われるだろう。6 その後、真理のしるしが明らかにされる。まず、しるしが天に広がり、それからラッパの音というしるし、そして三番目に死者のよみがえりが起こる。しかし、よみがえるのは、全ての死者ではない。「主は来られ、ご自身の全聖徒たちは主と共にいる」と書いてある通りである。それからこの世は、主が天上の雲に乗って来られるのを見るのである。

Vol.205 『使徒教父文書』を読むにあたって、とブルトマン著作集5


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 前回の更新(Vol.204)からの続きで、旧約聖書続編の全巻を読み終えて、残すところは旧約聖書の『詩篇』と新約聖書の『ヨハネの黙示録』だけとなった。
 次に読むのは使徒教父文書。
 理由は明快で、それらの文書がブルトマンの論文に出てくるから。ここで言う「それら」とは『ディダケー(十二使徒の教訓)』、『バルナバ書(バルナバの手紙)』、『ヘルマスの牧者』などである。さらに使徒教父文書は正典ではないけれど、そこから学ぶべきことがきっとあるはずで、いわゆる正典はアタナシオス(367年)の第39回復活祭書簡が新約聖書の文書数を27と最終的に確定したことによる。
 使徒教父文書については、荒井献編『使徒教父文書』(講談社文芸文庫)を手に取ることにした。
 

 機会があれば、はしがきに記されている『聖書の世界 別巻 4』(講談社)も手に取ってみたい。また『バルナバ書(バルナバの手紙)』に関しては、三小田敏雄「バルナバの手紙」(東海大学紀要)も併せて読みたいと思っている(参照元)。
 使徒教父文書を読むにあたっては、『ブルトマン著作集5巻』の第55章「正しい教理の問題と新約聖書の正典成立」に目を通しました。
 ブルトマンは正典の成立に関して、以下のように記している。

 問題は、使徒的と認められる文書を、しだいに増加していく文書の中から選り分ける選択であった。(中略)。どのようにして使徒活動の部分の限定が生じたのか、またなぜヘブル書や黙示録のような疑問を投げかけられた文書が正典とされ、他方ではⅠクレメンスやバルナバ、ヘルマスの牧羊者のようなものが排除されたのか(64ページ)。

Vol.204 『エズラ記』(ラテン語)を読んで 


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 過日(24日)の午後、約2時間掛かって、『エズラ記』(ラテン語)を読みました。
 巻末に付された「聖書について」には、次のように記されている。

 「エズラ記(ラテン語)」は、黙示文学に属し、おそらく一世紀末に書かれたと思われ、悪、苦しみ、迫害の問題や、神の裁きを述べている。

 補足すると、本書の構成として、三章からはエズラが見た七つの幻が記されている。
 例によって、備忘録を。
 

 一章
 1 預言者エズラの書。
 4 主の言葉がわたしに下った。
 27 お前たちが見捨てたのは、わたしではなく、お前たち自身である。」これは主の言葉。
 二章
 34 だから、わたしは言う。「聞いて理解する異邦の民よ、あなたたちの牧者を待ち望みなさい。彼はあなたたちに永遠の休みを与えてくださる。世の終わりに来られるはずの牧者は、近くにおられるからである。
 三章
 1 都の陥落後三十年目のこと、わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた。わたしは寝床に伏していて胸騒ぎを覚え、さまざまな思いが心をよぎった。
 四章
 9 だから今、わたしは、火と風とあなたが過ごした日々についてだけ、それなしには片ときもいられないものに限って尋ねたのである。しかしあなたはこれについて何も答えられなかった。」
 26 天使はわたしに答えた。「もしあなたが生きているならば見るであろうし、生き永らえるなら、度々驚くであろう。世はたちまち過ぎ去るということを。
 五章
 14 わたしは目を覚ました。わたしの体はひどく震えており、魂は疲労のあまり、消え入りそうになった。
 七章
 28 すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、生き残った人々に四百年の間喜びを与える。
 58 わたしは言った。「統べ治める方、主よ、ふんだんにある方は価値がなく、少ないものほど価値があります。」
 117 今の世では、生きていても悲しむほかなく、死んでからも刑罰しか待ち望めないとしたら、すべての人に何のよいことがありましょう。
 一〇章
 45 女は三十年の間うまずめだったと、あなたに言ったが、これはシオンにまだ犠牲が献げられていなかった期間が三千年間あったということである。
 一二章
 11 海から昇って来るのが見えたあの鷲は、あなたの兄弟ダニエルの幻に現れた第四の王国である。

 僕の最も印象に残った箇所は以下の聖句で、まさかここで『コリント人への第一の手紙』七章29節から31節の「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」と同じような言葉を目にするとは思ってもいなかったから。

 一六章
 41 わたしの民よ、わたしの言葉を聞くがよい。戦いに備えよ。地上にあっては寄留者のようになりなさい。
 42 すなわち、売る人は逃げ出す人のように、買う人はそれをすぐに失ってしまう人のように、
 43 商いをする人は利益を得ない人のように、家を建てる人はそこには住まない人のようになるがよい。
 44 種蒔く人は収穫を期待しないかのように、ぶどうの枝を刈り込む人は取り入れをしないかのように、
 45結婚する人は子をもうけないかのように、結婚しない人はやもめであるかのように生きるがよい。

 『エズラ記』(ラテン語)を読了して、旧約聖書続編を読破した。下の写真は目次で、月並みながら、感慨深いものがある。
 

 昨年秋から旧約聖書続編を読み始めて、年末年始に中断した。最も印象に残ったのは『シラ書(集会の書)』である。
 次は使徒教父文書の予定。

Vol.203 続 ブルトマン著「ヨハネ第一の手紙の教会的編集」を読んで


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 過日(23日)の夜、『ブルトマン著作集9』聖書学論文集3(新教出版社)に収録されている「ヨハネ第一の手紙の教会的編集」を再読しました。
 

 以前の更新(Vol.182)に続き、例によって備忘録を。内容を六つに整理した。

 一、繰り返される「書きおくる(1;4、2;1、2;7、2;8、2;13、2;14、2;21、2;26 )」といった表現について。
 二、手紙の差出人である「匿名の著者は一個人ではなくて、耳で聞き目で見た証人を意味する『われわれ』」であり、手紙の受取人は「『あなたがた』として、すなわちキリスト教会、伝承の受け取り手」。
 三、5;13の「書きおくった」は手紙の結びの部分。
 四、5;14に編集者の存在が暗示され、5;14~21は教会的編集の付録。
 五、本書(『ヨハネの第一の手紙』)の構成については、2;18~27は2;28~3;24に対応。4;1~6は4;7~5;4に対応。1;5~2;17及び5;4~13の枠付け。
 六、1;7b、2;2、2;28、3;2、4;17は教会による挿入(後の挿入)。

 久しぶりにブルトマンの論文に目を通したけれど、やはり難しい。けれども、読んでいて、勉強になるのはもちろんのこと、興奮させられて、実に楽しい。

 以下は余談。
 今日の午前中は例によって、下の写真にあるように清掃奉仕(ボランティア活動)でした。
 

Vol.202 『エズラ記』(ギリシア語)を読んで


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 23日の朝、『エズラ記』(ギリシア語)を読みました。
 巻末に付された「聖書について」には、「主題は、ヨシヤ、ゾロバベル、エズラによる礼拝の改革であり、これらについての史料を提供する」とある。
 なるほどそのとおりで、史料を読んだという印象であった。

 一章、ユダヤ王の最後。
 二章、アルタクセルクセス王の時代。
 三~四章、三人の護衛(酒、王、女と真理)。
 六章、ハガイとゼガリヤの名前が出てくる。
 七章、神殿工事の完成を祝う。
 八章、エズラが登場する。
 九章、異民族の女の問題とエズラが皆の前で律法の巻物を朗読。

 例によって、呪文か早口言葉にしか思えないのが五章で、下の写真がそれです。
 

 『エズラ記』(ギリシア語)を読んで、『エズラ記』は歴史書であることを再認識しました。

 以下は余談。
 明日の1月26日は文化財防火デーで、全国消防カードを集めていた数年前には、消防訓練の見学へ足を運んでいたことを思い出しました。

Vol.201 『民数記』二一章から三六章を読んで


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 前々回の更新(Vol.199)からの続きで、過日に『民数記』を読んだことから、その備忘録として、二一章から三六章について記しておきたい。

 二一章
 8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
 21ここでイスラエルはアモリびとの王シホンに使者をつかわして言わせた、
 33 転じてバシャンの道に上って行ったが、バシャンの王オグは、その民をことごとく率い、エデレイで戦おうとして出迎えた。
 二二章
 1 さて、イスラエルの人々はまた道を進んで、エリコに近いヨルダンのかなたのモアブの平野に宿営した。
 2 チッポルの子バラクはイスラエルがアモリびとにしたすべての事を見たので、
 7 モアブの長老たちとミデアンの長老たちは占いの礼物を手にして出発し、バラムのもとへ行って、バラクの言葉を告げた。
 21 明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。
 二三章
 19 神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。
 二四章
 13 『たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。
 二五章
 11 「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。
 二六章
 51 これらはイスラエルの子孫の数えられた者であって、六十万一千七百三十人であった。
 

 二七章
 18 主はモーセに言われた、「神の霊のやどっているヌンの子ヨシュアを選び、あなたの手をその上におき、
 二八章
 2 「イスラエルの人々に命じて言いなさい、『あなたがたは香ばしいかおりとしてわたしにささげる火祭、すなわち、わたしの供え物、わたしの食物を定めの時にわたしにささげることを怠ってはならない』。
 三二章
 29 そしてモーセは彼らに言った、「ガドの子孫と、ルベンの子孫とが、おのおの武装してあなたがたと一緒にヨルダンを渡り、主の前に戦って、その地をあなたがたが征服するならば、あなたがたは彼らにギレアデの地を領地として与えなければならない。
 三三章
 1 イスラエルの人々が、モーセとアロンとに導かれ、その部隊に従って、エジプトの国を出てから経た旅路は次のとおりである。
 三五章
 6 あなたがたがレビびとに与える町々は六つで、のがれの町とし、人を殺した者がのがれる所としなければならない。なおこのほかに四十二の町を与えなければならない。

 そして、主役はモーセからヨシュアへ、ストーリーはヨルダン渡河へ、と。
 『民数記』を読んで僕が感じたことは、人口調査は正確なのかという疑問は横へ置くとして、たくさんの人たちが生まれ、生きて、死んでいったことだけは分かった。「イスラエルにおいて、すべての戦争に出ることのできる二十歳以上の者」の一人ひとりを数えたのだから、当然のことながら、その中には寿命や疫病などではなく、戦って死んだ人たち(捕虜になった人たち)も大勢いたはずだ。はからずも、人類の歴史は戦争の歴史だと『民数記』が証明しているのが悲しい。

 以下は余談。
 昨日の午後は下の写真の場所へ足を運びました。
 

Vol.200 村田和人さんの夏


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 区切りの更新は故村田和人さんの話題を、と自分勝手に決めています。
 村田さんと言えば、「夏」ですよね。でも、これを書いている今、一年で最も寒い時期。村田さんがいる天国にも四季があったら、そこだけはやっぱり夏なんだろうな、と。
 下のショート動画は村田さんのライブ(トーク)で、12月中旬の寒い日に行われた際、撮影しました(ご本人の許可を得ています)。


 会場までバイクで駆けつけ、入店した際、厚着をしていた僕を目にした村田さんが「今日は来てくれて、ありがとう。寒いね。大丈夫?」と声を掛けてくださいました。僕は「今日、この場所だけは夏ですから」とお返事をしたら、村田さんはニッコリと笑って、頷いてくれました。
 僕も村田さんと同じで、夏が大好きな夏男。村田さんの歌声を聴いて、寒さを吹き飛ばすぞ。

Vol.199 『民数記』一章から二〇章を読んで


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 過日(17日)の午後、『民数記』を約3時間半かけて、一気に読みました。『レビ記』の際(Vol.194)も約3時間半かけて一気に読破したのですが、こちらも内容が内容だけに途中で投げ出せないな、と。
 

 『民数記』の五章と七章について、正直に告白すると、今まで読んだ『聖書』の中で、最もつまらないと感じました(アバ、父なる神さま、ごめんなさい)。たとえば「夫が疑いの心を起こして妻を疑うこと(五章)」はこの僕と何の係わりがありますか、と。あるいは繰り返される「酬恩祭の犠牲に使う雄牛二頭、雄羊五頭、雄やぎ五頭、一歳の雄の小羊五頭であって(七章)」は呪文か早口言葉にしか思えない。
 九章で幕屋を建て、一〇章以降はストーリーが動き出して(シナイの荒野を出て)、どうにか読み進むことができた。
 一一章
 3 主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。
 4 また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。
 19 あなたがたがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、
 20 一か月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。それはあなたがたのうちにおられる主を軽んじて、その前に泣き、なぜ、わたしたちはエジプトから出てきたのだろうと言ったからである』」。
 一二章
 3 モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。
 10 雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、らい病となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女はらい病になっていた。」
 一三章
 2 「人をつかわして、わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。すなわち、その父祖の部族ごとに、すべて彼らのうちのつかさたる者ひとりずつをつかわしなさい」。
 16 以上はモーセがその地を探らせるためにつかわした人々の名である。そしてモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。
 25 四十日の後、彼らはその地を探り終って帰ってきた。
 一四章
 29 あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。
 30 エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、わたしがかつて、あなたがたを住まわせようと、手をあげて誓った地に、はいることができないであろう。
 34 あなたがたは、かの地を探った四十日の日数にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう」。
 一五章
 37から41節まではブルトマンが取り上げている。
 一六章
 1 ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、
 一七章
 8 その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。
 一八章
 26 「レビびとに言いなさい、『わたしがイスラエルの人々から取って、嗣業として与える十分の一を受ける時、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主にささげなければならない。
 二〇章
 13 これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。
 29 全会衆がアロンの死んだのを見たとき、イスラエルの全家は三十日の間アロンのために泣いた。

 と、ここまで書いてきたが、『民数記』と同様、長くなってしまうことから、続きは次々回の更新にて。

Vol.198 『エステル記』(ギリシア語)を読んで


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 今夕は『エステル記』(ギリシア語)を読みました。
 巻末に付されている「聖書について」には、以下のように記されている。

 「ギリシア語本文によるエステル記」は、「ヘブライ語のエステル記」にモルデカイやエステルの祈りなど、多少の追加をしたものである。

 なるほど以前に読んだ『エステル記』には、モルデガイの祈りをはじめ、勅書などはなかった。
 

 『エステル記』を読んだのは、昨年の夏(Vol.84)で、前回の更新でも書いた「聖書通読の会」で朗読した(あれから5カ月も経ってしまったのか、と)。また、ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』にも『エステル記』の名が出てくる(Vol.196)。
 僕自身、『エステル記』に思い入れはないが、なぜか不思議な巡り合わせの書である。

Vol.197 雨の日曜日と聖書通読の会


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 今朝は雨が降っていたことから、地下街を徘徊。
 下の写真はサカエチカにあるクリスタル広場で、ラグビーワールドカップ2019に関連する展示がされていました。
 

 続けて、某所へ向かい、午前中は餅つきのお手伝いをした後、下の写真にあるようについたお餅をいただきました。
 

 午後からは先月お休みをした聖書通読の会に参加。僕は5回目の出席で、『マルコによる福音書』の第1から7章を皆で順番に朗読しました。

Vol.196 『カラマーゾフの兄弟』と『聖書』からの引用


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 文豪ドストエフスキーが幼い頃、『カラマーゾフの兄弟』の作中に出てくる『旧・新約聖書の百四の物語』で読み書きを学んだというエピソードは広く知られている。「美しい挿絵の入った」「読み書きの勉強をしたのもこの本によってだった」と、『カラマーゾフの兄弟』の登場人物であるゾシマ長老の口を借りて、文豪は記している(「ゾシマ長老の人生における聖書」)。
 『カラマーゾフの兄弟』には『聖書』からの引用が多数ある。ページをめくると、すぐに「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる(『ヨハネによる福音書』12;24)」とエピグラフにもある。作中において、パイーシイ神父が朗読する『ヨハネによる福音書』2章の「ガリラヤのカナ」は言うに及ばない。いったいどれだけ『聖書』からの言葉が引用されているのだろうかと思い、(原卓也訳の新潮文庫を例に)ちょっと調べてみた(あくまで、ざっと大まかに)。

 上巻(記載ページ数と引用章)
 19 ルカによる福音書2章
 48 ヨハネによる福音書20章
 80 ルカによる福音書11章
 92 エレミヤ書31章
 180 ヨブ記
 234 民数記22章 バラムのロバ
 460 ルカによる福音書15章 放蕩息子のたとえ
 476 ヨハネの黙示録22章
 476 マタイによる福音書24章
 476 ヨハネの黙示録8章
 478 マタイによる福音書24章
 479 マタイによる福音書9章
 484 マタイによる福音書4章
 493 ヨハネの黙示録7章
 499 ヨハネの黙示録17章、18章

 中巻(記載ページ数と引用章)
 13 創世記1章
 46 ヨハネによる福音書12章24節
 54 ヨブ記1章
 61 創世記
 62 エステル記
 62 ヨナ書
 62 ルカによる福音書
 62 使徒行伝 サウロの呼び掛け
 90 ヨハネによる福音書12章24節
 91 ヘブル人への手紙10章31節
 115 ルカによる福音書15章 金持ちとラザロの寓話
 182~4 ヨハネによる福音書2章 カナの婚宴
 

 下巻(記載ページ数と引用章)
 440 ヨハネによる福音書10章 よい羊飼い
 441 マタイによる福音書7章

 調べた際に、登場人物たちによる「キリスト」といった類の単語(たとえば上巻241ページ以下)や『聖書』を引き合いに出した会話(たとえば中巻の66、122ページ)等を省いたけれど、見落としている箇所があるかもしれない。あるいは上に挙げた中で、たとえば中巻(13ページ)の創世記1章について、上巻(235ページ)にある「いえ、べつに。ただ、神さまが世界を創ったのは最初の日で、太陽や月や星は四日目なんでしょ。だったら、最初の日はどこから光がさしたんですかね?」と関連する(繰り返しになる)ことから、そうした例も同様に省いた。
 さて、ここで冒頭の話題に戻り、僕自身、読み書きを覚えた本は何かと考えてみた。おそらく幼稚園児の頃に読んだ絵本だったに違いない。しかしながら、ドストエフスキーのように書名までは思い出せなかった。

Vol.195 『マラキ書』を読んで


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 過日(15日)、『マラキ書』を読みました。
 『マラキ書』と言えば、十分の一(什一献金)に関する話題が数多く取り上げられている。しかしながら、ここでは僕が後日の参考とするために、例によって、備忘録を。
 『マラキ書』は議論(対話)形式で記されている。
 ブルトマンは三章1節を取り上げていた。

 「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。
 

 言わずもがな、旧約聖書の最後に配置されている書が『マラキ書』であり、そして、旧約と新約の間である中間時代へ。

 以下は余談。
 今朝は例によって、西(神戸)の空に向かい、手を合わせました。

Vol.194 『レビ記』を読んで


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 過日(13日)、『レビ記』を読んだことから、後日の参考とするために、例によって、備忘録を。
 一~七章までは、5つの献げ物(「燔祭(焼き尽くす献げ物)」、「素祭(穀物の献げ物)」、「酬恩祭(和解の献げ物)」、「罪祭(贖罪の献げ者)」、「愆祭(賠償の献げ物)」)について。続けて、レビ人アロンの子なる祭司たちへの役割が細かく記されている。
 僕が興味を覚えたのは、一一章(食べることができるもの。また、食べられないものについて)。一三章(らい病について)。一九章(2節、9節、18節、28節)。二一章の訂正箇所(18節の目しい、足なえ、鼻のかけた者、手足の不つりあいの者。20節のせむし、こびと。また、めくらは盲目と置き換えられており、僕が愛用している『聖書』は古い口語訳だから、新共同訳や聖書協会共同訳とはずいぶん違っている)。二五章(ヨベルの年)。二六章(36節)。二七章(30節の十分の一)。
 

 以下は余談。
 大相撲の話題で、応援している稀勢の里関が引退と聞いて、本当に寂しい。
 下の写真は数年前に足を運んだ朝稽古見学で、故鳴門親方も稀勢の里関の決断を天国から見守っているはず。
 

Vol.193 『ダニエル書』を読んで


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 『ダニエル書』を一~六章(6日)、七と八章(12日)、九~一二章(13日)と、3回に分けて読んだ。
 『ダニエル書』はヘブライ語(1;1~2;4、8;1~12;13)とアラム語(2;4~7;28)で書かれているとのこと。
 

 後日の参考とするために、例によって、備忘録を。
 一章はダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤのプロフィール。
 二章はブルトマンの著作で取り上げられていた。
 三章には旧約聖書続編の『ダニエル書補遺』の中の「アザルヤの祈りと三人の若者の讃歌」と関連したエピソードが載っていた。
 四章の途中から、文体が変わったように感じた。
 五章については、「5 すると突然人の手の指があらわれて」「24 この文字が書きしるされた」とあり、読んでいて、ぎょっとさせられた。そんなことを経験したら、僕も王と同じように「6 顔色は変り、その心は思い悩んで乱れ、その腰のつがいはゆるみ、ひざは震えて互に打ちあった」だろう。
 六章に出てくる「ししの穴」のエピソードを面白く読んだ。
 七章はブルトマンの著作で取り上げられていた。
 八章のキーワードは「終りの時」で、九章は「七十週」と「メシア」。
 一〇章から一二章までは、最後の幻であるが、自分(僕自身)の言葉で上手にまとめることができなかった。
 最後に『ダニエル書』は黙示文学であることから、そのことについて触れておく必要がある。

 黙示とはギリシア語の「アポカリュプシス」で、「覆いを取る、啓示する」という意味に由来する。『ダニエル書』は黙示文学で、天的な存在から霊的な現実をどう理解すればよいかを象徴や幻を通して示す物語(スタディ版より)。

 『ダニエル書』はバビロン流刑の後、民の一部が追放から国内へ戻り、ユダヤ民族が神の共同体として結集した時期に成立した黙示文学の内の最初の書(ブルトマン著作集より)。

 僕なりの結論を簡潔に記すと、『ダニエル書』は2章と7章が重要で、黙示文学に関しては、『ヨハネの黙示録』にまだ目を通していないうえに、エルンスト・ケーゼマンの論文に対するブルトマンの論文「黙示文学はキリスト教神学の母か」にもまだ目を通していないことから、先送りである。

Vol.192 故梅原猛先生と円空


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 今朝、梅原猛先生の死去を知った。
 2013年の秋、郡上市白鳥町にある白山文化博物館にて、お目にかかったことを思い出した。
 下の写真がそれで、円空さんの彫った十一面観音像の後ろに立ち、像の背銘を目にする梅原先生と長谷川公茂先生です(写真は諸事情により、ぼかし加工をしています)。
 

 梅原猛著『歓喜する円空』(新潮社)を今、手に取っている。
 梅原先生がお亡くなりになられて、残念に思うと共に、円空大賞展はどうなってしまうのかと心配もしています。

 以下は余談。
 ハッピーマンデー制度は僕にとって、少しもハッピーじゃない。

Vol.191 ボランティア(奉仕)活動の掛け持ち


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 今日は午前と午後、ボランティア(奉仕)活動に励んできました。
 下の写真は午前中、某所にて清掃奉仕の様子です。
 

 今日12日が2019(平成31)年になってから、初のボランティア(奉仕)活動でした。

Vol.190 長谷川公茂先生の版画作品


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 今日の午前中は短い時間ながら、長谷川公茂先生とお会いして、楽しい円空談義。
 下の写真は長谷川先生作の円空の狛犬の版画で、昭和42年の制作とあり、僕が生まれる前でした。
 

 出典は一宮史談会叢書7 森徳一郎著『郷土史234珍』に載っていたカット(挿絵)です。円空さんの彫った狛犬を目にしたことがある人ならば、見事に特徴を掴んでいると、感心するはず。ただし、長谷川先生は嫌だと言ったのに、森徳一郎先生の指示で緑色になったのだとか。
 著者の森徳一郎先生は「もりとく先生」と呼ばれ、長谷川公茂先生の師匠であることから、僕にとっては、大師匠(師匠の師匠)ということになるのかな、と。

Vol.189 讃美歌21 368 新しい年を迎えて


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 今日の更新までは「公現日」ということで、新年に相応しい話題を。

  『讃美歌21』368番「新しい年を迎えて」
  1 新しい 年を迎えて
    新しい 歌をうたおう。
    なきものを あるがごとくに
    呼びたもう 神をたたえて
    新しい 歌をうたおう。
  2 過ぎ去った 日々の悲しみ
    さまざまな うれいはすべて
    キリストの み手にゆだねて、
    み恵みが あふれるような
    生きかたを 今年はしよう。
  3 みことばに はげまされつつ
    欠け多き 土の器を
    主の前に すべて捧げて、
    み恵みが あふれるような
    生きかたを 今年はしよう。
  4 自分だけ 生きるのでなく
    みな共に 手をたずさえて、
    み恵みが あふれる国を
    地の上に 来たらすような
    生きかたを 今年はしよう。

 歌詞の中で繰り返される「生きかたを 今年はしよう」に心を打たれます。僕はとりわけ2番の歌詞が好きなのです。

 以下は余談。
 愛知県庁の前を走っていたら、休日にもかかわらず、人の姿があり、何やら撮影していました。
 下の写真がそれで、「廣」「驛」という字が見えました。
 

Vol.188 ケーズデンキ 2019年 初売り


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 今年もケーズデンキの初売りへ足を運びました。
 

 先着順であることから、寒い中、並んだ甲斐あって、無事に欲しかった商品をゲットできました。
 

 僕が常日頃、使用している家電製品のいくつかは、ケーズデンキの初売りで購入したセール品だけれど、これで充分です。

 以下は余談。
 開店を待つ間、『使徒言行録』を再読しました。ペテロが死人を生き返らせる場面、サウロの回心、パウロの宣教旅行、使徒会議を拾い読みして、叶わぬ夢だけれど、『直線通り』を歩いてみたいな、と。

Vol.187 あけましておめでとうございます


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 昨年と同じように過ごした元日でした。
 午後には細分化された時間の中で、下の写真にあるように「書いて覚える」を繰り返していました。