vol.812 一蓮托生と目から鱗が落ちる


 ブログ「Stay The Young (Trilogy)」をお読みいただき、ありがとうございます。

 今日の午前中は対人関係で、久しぶりに腹立たしさを覚えました。
 若かりし頃、仏の道を進みはじめて、今も変わっていませんが、怒らず、何でも許すといった寛容な人間になったわけでもなく、なりたいわけでもありません。相手の失礼な態度には、腹が立つし、謝らなければ、到底許せません。大人げないとか、修行が足らないと忠告する人もいますが、お門違いも甚だしい(もちろん反対に貴重なアドバイスをいただくこともあります)。
 一蓮托生は僕の好きな仏教語の一つで、一緒に極楽に往生して、同じ蓮華に身を託すことを意味します。現代では意味が少し違って、良くも悪くも行動(運命)を共にする際に使われたりします。僕は一蓮托生の関係を築けない人たちとは、縁がないと考えています。たとえそれが職場などであったとしても、そのような人とは一緒にいたくないし、同じ空気を吸うことさえも嫌です。
 僕の先輩で、クリスチャンの I さんは常日頃から温厚なお人柄でありながら、断る際などには「嫌なものは嫌」と口に出してハッキリ言える人で、その毅然とした態度を目にして、格好良いと感銘したことがあります。
 仏教徒でも、クリスチャンでも、信念を持っている人は本当に強い人だと思います。そして、僕もそうありたいと。

 以下は余談。
 聖書に出てくる僕の好きなことわざの一つは「目から鱗(うろこ)が落ちる」です。キリスト教徒たちを迫害していたサウロ(パウロ)がクリスチャンへと生まれ変わる場面が由来となっています。
 

 『新約聖書』「使徒行伝」(口語訳)9章17節から19節
 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。

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