Vol.162 続 神谷美恵子著作集6『存在の重み エッセイ集2』(みすず書房)を読んで


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 前回の更新(Vol.161)からの続きで、神谷美恵子著作集6『存在の重み エッセイ集2』(みすず書房)を読みました。
 僕が本書を読んでいて、ハッとさせられた箇所を備忘録として。

 「人は何かにつまづいて、はじめてその障害物の所在を知る(34ページ)」。
 「もちろん、人間の心はたえず生きがいを感じるようにはできていないので、一生のうち、何べんか、ああ、生きていてよかったなァ、と感じられる瞬間があればありがたいとすべきでしょう(38ページ)」。
 「苦しみの中でたったひとり、と思いこむのはただ人間が近視眼であるためにちがいない(84ページ)」。
 「だれかとの出会いや何かの書物を通して、自分にぴったりのなぐさめの言葉を見出せたひとは幸いである(205ページ)」。
 「しかし、どんな人間であろうとも自ら望んで生まれてきたわけではない。生まれさせられ、生かされて来たのだ(220ページ)」。

 下の写真は「『ポリテイア(国家)』今昔」と題した文章の中で、神谷美恵子が身内に宛てた私信を引用した箇所です。
 

 「本業は精神科医(222ページ)」である神谷美恵子の書いた文章には、「生きがい」、「愛来園(療養所)」、「らい病」、「患者さん」、「精神医学(精神医療)」といった、どちらかと言えば、暗いイメージの言葉が多数、散見される。しかしながら、手紙の文末には、「今したいことは誰かと一緒にワハハと笑うこと。以上」と記されており、神谷美恵子の人柄に触れたような気がした。

 以下は余談。
 これもまた前回の更新(Vol.161)からの続きで、今日は神谷美恵子が翻訳したというマルクス・アウレリウス著『自省録』(岩波書店)に目を通しました。
 


Vol.161 神谷美恵子著作集6『存在の重み エッセイ集2』(みすず書房)を読んで


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 以前の更新(Vol.155)でも書いたように、神谷美恵子の著作集6『存在の重み エッセイ集2』(みすず書房)を今夕、読み終えました。
 

 『生きがいについて』と同様、期待を裏切らない素晴らしい内容でした。
 読後、最も印象に残ったのは、「女性の生き方について」で、副題に「女子高生のために(講演)」とあり、神谷美恵子が語る内容もさることながら、彼女の講演を聞いた女子高生たちを羨ましく思いました。
 

 「生きがいの基礎」の中で、神谷美恵子が翻訳したというマルクス・アウレリウスの『自省録』が出てきたことから、次はそれを読むことに。

 以下は余談。
 今日の午前中は荒子観音寺へ行き、円空の研究は「荒子に始まり、荒子に終わる」を肌で実感しました(写真は許可を得て撮影しており、転載・再配布等を固く禁止します)。
 

Vol.160 円空上人の心を伝える会 第2集『円空の微笑仏(一)』


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 表題のとおり、円空上人の心を伝える会から2冊目となる『円空の微笑仏(一)』が上梓されます。
 下の写真が表紙です。
 

 下の写真は長谷川公茂先生による巻頭言で、「円空の微笑仏」に対する解説文です。
 

 『円空の微笑仏(一)』は来月以降、以下の場所で販売を予定しています(定価1000円)。

 すいとぴあ江南
  愛知県江南市草井町西200

 関市洞戸円空記念館
  岐阜県関市洞戸高賀1212

 中観音堂
  岐阜県羽島市上中町中526

 会員制・発行部数限定の為、一般書店では販売していません。

Vol.159 一宮円空会の社会科見学にて音楽寺の参拝


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 今日の午前中は江南市にある音楽寺へ行き、長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会の社会科見学に途中合流しました。
 下の写真は音楽寺の円空仏を展示している資料館です。
 

 音楽寺へ足を運んだのは、6月上旬に行われたあじさい祭りの開会式と8月下旬に行われたすいとぴあ江南主催の長谷川公茂先生の特別講演以来で、今年は計3回となりそうです。
 文末になってしまいましたが、村久野歴史資料館運営委員会の皆様には、大変お世話になりました。この場を借りて、お礼申し上げます。

Vol.158 旧約聖書続編『マカバイ記 二』を読んで


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 先週、旧約聖書続編の『マカバイ記 二』を読みました。
 

 例によって、僕の心に響いた箇所を引いて、備忘録としたい。

 二章
 32 前置きはこれぐらいにして話を始めることにしよう。いつまでも物語の入り口にとどまって、本題をおろそかにするのは愚かなことである。
 三章
 16 大祭司の姿は見る者の心を痛めた。そのふるまいや表情には、内面の苦悩が表れていた。 17彼は全身恐怖に包まれ、体が小刻みに震えていた。彼を見るすべての人に、その心の苦悶が伝わってきた。
 五章
 2-3 折から、全市におよそ四十日にわたり、金糸の衣装をまとい、槍と抜き身の剣で完全武装した騎兵隊が空中を駆け巡るのが見えるという出来事が起きた。すなわち、隊を整えた騎兵がおのおの攻撃や突撃をし、盾が揺れ、槍は林立し、投げ槍が飛び、金の飾りやさまざまな胸当てがきらめいた。
 27 そのころ、マカバイとも呼ばれたユダは、十人ばかりで山地に逃げ込み、野の獣のような生活を同志と共に送っていた。彼は野草を糧として、あくまでも汚れに染まることはなかった。
 六章
 12 さて、わたしはこの書を読む者がこのような災難に気落ちせず、これらの罰は我々民族を全滅させるためのものではなく、むしろ教訓のためであると考えるよう勧めたい。
 17 以上のことを心に留めて、直ちに物語の本筋に戻ろう。
 23 これに対して、彼は筋の通った考えを持っていて、その年齢と老年のゆえの品位、更に新たに加わった立派な白髪、だれにもまさった幼いときからの生き方にふさわしく、とりわけ神が定められた聖なる律法に従って、毅然とした態度でちゅうちょすることなく、「わたしを陰府へ送り込んでくれ」と言った。
 一五章
 11 同志の一人一人を、盾や槍による守りではなく、力強い言葉が持つ励ましで武装させ、信ずるに足る夢を語って聞かせ、彼ら全員を喜ばせた。
 37 さて、ニカノルに関することのいきさつは、以上のとおりであった。この事件以来、エルサレムの都はヘブライ人によって保たれている。そこで、わたしもこの辺で筆をおこう。
 38 もしこの物語の編集が巧みで要領を得ているなら、それはわたしの喜ぶところである。しかし、つたなく平凡であるとすれば、それはわたしの力が及ばなかったのである。
 39 ちょうど、ぶどう酒だけ、あるいは水だけを飲むのは有害であるが、ぶどう酒と水を適度に混ぜると、人を心地よく楽しくする。それと同様、物語もよく編集されていると、それを聞く人の耳を楽しませる。これをもって本書の終わりとする。

 通読して、殺し殺されたといった凄惨な内容ながら、「わたし」がときどき顔を出す。この2つがアンバランスに感じられるが、そこがユニークでもあるといった印象を持った。

 以下は余談。
 今日の午前中は9月以来、某所へ足を運んで、「ウエストミンスター小教理問答」を学びました。
 

 僕はプロテスタントの教会において、教派等に関係なく、学べるものは何でも学びたいと思っている。

Vol.157 清掃奉仕と結婚式の準備のお手伝い


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 今日は土曜日ということで、例によって、清掃奉仕でした。
 

 清掃奉仕の後、先週(17日)と同様、礼拝堂にバージンロードの白い布を敷き、結婚式の準備のお手伝いをしました。
 下の写真がそれで、今の子どもたちならば、職場体験ということもあるのでしょうが、僕にとっては、貴重な経験をさせていただきました。
 

 文末になってしまいましたが、牧師様をはじめとする関係者の皆様には、この場を借りて、お礼申し上げます。

Vol.156 続 神谷美恵子著『生きがいについて』(みすず書房)を読んで


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 前回の更新(Vol.155)からの続きで、今の僕にとって、大切なことを教えてくれた箇所を挙げておきたい。

 「運命というものは、必ずしも人間にとって悪いものばかりをもたらすわけではないのだが、人間の身勝手な性質として、いいことはとかくあたりまえなこととしてうけとりがちである。たとえば、私たちが悪い病気にもならず、毎日を親しい者のなかで平和に暮らせるということ、それをひとつとってみてもまったくふしぎな『まわりあわせ』で、だだ好運というよりほかない」(本書97ページ)。

 「現在、ある目標にむかって熱中しているひとを眺めるとき、その同じ性質をもってして、どんなほかの形の人生をかたちづくりえたか、と考えてみるのは興味のつきないことである。それは、人生における偶然や運命や決断などの役割に、深く思いをひそめさせる機会でもある」(本書181ページ)。
 
 「らい園というところは、どこでも宗教がさかんで、諸宗教の礼拝堂がせまい地域内にいくつも共存しているのが特徴である。(中略)ことに病める者として、この友愛による助け合い、支え合いがどれほどの力になることか。これだけでも宗教はうしなわれた生きがいの代償として、りっぱに成立しうる」(本書226ページ)と、これに続く「積極的な生きがいとしての宗教」(本書228~232ページ)。
 

 「おわりに」と題したあとがきの冒頭、「この本をかきはじめてからいつのまにか七年もたってしまった」とあった。続く付記には「らいの存在をはじめて知った」経緯、そして「このらい園で精神科医として働くことは私の大きな生きがいの一つである」と結んでいる。7年間の時を経て、書かれたという本書もまた、著者が指摘するように「まわりあわせ」や「時間」の賜物であったのだろう。

 以下は余談。
 今日の午後は一昨日に新しく作ったメガネを受け取りに行きました。