Vol.69 『ルカによる福音書』を読んで


 読後の感想を一言で表せば、素直に感動した。
 とりわけ第二二章の「主の晩餐」とユダの裏切りから、第二三章のイエスの死を経て、第二四章のエマオで姿を現すといったストーリーの運び方に盛り上がりを感じつつ、最後にイエスは「み姿が見えなくなった」り、「『やすかれ』と言われた」り、「まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。(中略)。こう言って、手と足とをお見せになった」り、「「焼いた魚の一きれをさしあげると(中略)、みんなの前で食べられた」り、「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」と言われた後、「祝福しておられるうちに、彼らを離れて」昇天する。読み終えた際に、僕は気持ちの良さを覚えた。
 

 本文中、印象に残ったエピソードは、神殿での少年イエス(二章)、イエスの服に触れる女(八章)、マルタとマリア(一〇章)で、併せて、税や金持ちについても。その他には、イエスが癒やすことから、大勢の病に苦しむ人たち(らい病、中風、水腫など)が出てくることに否応なく気付かされた。
 『ルカによる福音書』は『使徒行伝』へ続くとのこと。ずいぶん前に『使徒行伝』の第五章までを読んで、そのままになってしまったことから、改めて一から読み直したい。

Vol.68 『ガラテヤ人の手紙』を読んで


 過日(23日)の午後、『ガラテヤ人の手紙』を読みました。

 第一章
 六 あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。

 呼びかけの口調がいっそう厳しいものに感じた。読了したら、全体を通じて、ますますそのように感じた。なればこそ、以下の言葉が僕の心にストレートに響いた。

 第三章
 四 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。

 まるで僕を戒めるかのような、力強い言葉だ。あの経験をむだにするなよ、と。
 

 『聖書』を読んで、励まされる言葉を挙げるとしたら、やはり一番は「世に勝つ(世に勝っている)」であろう。

 『ヨハネによる福音書』
 第一六章
 三三 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

 『ヨハネの第一の手紙』
 第五章
 四 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。

 『ガラテヤ人の手紙』に記された短い言葉は「世に勝つ(世に勝っている)」と同様、僕を力強く励ましてくれた。
 大事なことを忘れずに書いておくと、『ガラテヤ人の手紙』は、ブルトマンの論文(「アダムよ、あなたはどこにいるのか」等)では、とりわけ三章が取り上げられていた。

Vol.67 『ペテロの第一の手紙』を読んで


 『ペテロの第一の手紙』の中で、僕が最も印象深いのは第二章第一一節であり、僕にとって、『ペテロの第一の手紙』は第二章第一一節に収斂されると言っても過言ではない。

 第二章
 一一 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
 

 人は、そして、僕は何者かと言えば、この世で、今、生きているうちは「旅人であり寄留者である」と。そして、いつか旅は終わり、あるいは滞在が終わって、帰って行く(死ぬ)のだ、と。
 旅の途中、滞在者として、いかに行動する(生きる)のかについても、続けて記されている。

 一六 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。

 話題が前後するけれども、『ペテロの第一の手紙』を読んで、僕がハッとさせられたのは、いつか別の場所で書いたこと(『ペテロの第二の手紙』2・13、3・14)のある「きず」と「しみ」という表現が、ここにも出てきたことだ。

 第一章
 一九 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。

 『新約聖書』には、全部で21の手紙がしたためられているが、『ペテロの第一の手紙』はまるで僕宛てに差し出されたのではないかと、そう思えてならない。まだまだ書きたいことは山ほどあるのだが、それは止めておくことにする。

Vol.66 『ハガイ書』とブルトマン著「預言と成就」(1950年)を読んで


 写真は『ハガイ書』の第二章第四節です。
 

 『ハガイ書』
 第二章
 四 主は言われる、ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。
 五 これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに、約束した言葉である。わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。
 六 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。
 七 わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。

 『ハガイ書』の内容はごく短いのだが、それに反比例するようにして、圧倒された。とりわけ、第二章の四節は「勇気を出せ」と、3度も呼びかけているうえに、「働け」ともある。次の五節には、「恐れるな」とある。続けて、六節と七節では「震う」が繰り返される。
 また、六節はブルトマンによれば、『ヘブル人の手紙』第一二章二六節に対する預言と成就の関係にある。

 『ヘブル人の手紙』
 一二章
 二六 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
 二七 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。

 それにしても、面白いなと感じるのは、時間の経過(の順序)が逆ということ。後に書かれた『新約聖書』で成就されることよって、前に書かれた『旧約聖書』が預言となるのだ。『新約聖書』にとっては、『旧約聖書』は救世主が到来するという預言の書として扱われている。
 確かに今現在があるのは、過去があるからだが、僕は過去が今現在に及ぼすことについて、考えさせられた。過去に縛られる必要はない、と。『聖書』とブルトマンの著作は、いろんな事を気付かせ、教えてくれる。

Vol.65 続 荒子観音寺の円空仏の新しい小冊子(パンフレット)


 今日の午前中は長谷川公茂先生とお会いして、楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
 下の写真は長谷川公茂先生とご一緒したモーニングサービスのサンドウィッチセットです。
 

 少し前の更新(Vol.60)で、荒子観音寺の円空仏の新しい小冊子(パンフレット)について書きましたが、その続き。
 長谷川公茂先生の上梓した小冊子ということで、例によって、下の写真にあるようにサインを頂戴しました。
 

Vol.64 ブルトマン著「世界教会協議会のキリスト論的信仰告白」(1951/2年)を読んで


 ブルトマンは「世界教会協議会のキリスト論的信仰告白」の冒頭で、次のように問い、答えている。

 「世界教会協議会は、イエス・キリストを神として、また救済者として承認する諸教会から成り立っている」。さて、この信仰告白の表現が新約聖書に対応しているかどうかを吟味するという課題が、私に出された。私はこの問いに即座に、次のごとく、まったく短く答えることができる。すなわち、私にはそれは分からないと。(本書324ページ)
 

 ブルトマンの言葉を受けて、「世界教会協議会のキリスト論的信仰告白」については、本論の内容をまとめたりせず、僕が最も強く印象に残った箇所を取り上げたい。

 人間はそもそも、存在の意味を、つまり、歴史や文化の意味を問われているのではない。この問いは初めから不可能な、答えることのできない問いである。なぜならば、この問いの答えは、答えるものが、人間の存在、歴史、世界の外部にいることを確かに前提しているからである。人間はただ瞬間の意味を問われており、(私にはそう思われるのであるが)、また、このことは瞬間の要求を問われていることを意味する。(本書342ページ)

 学生時代、芥川賞の受賞作である『僕って何』を読んだことがある。自分とは何かといった、いわゆる自己のアイデンティティ(同一性)について、当時、僕なりに足りない頭で考えたけれど、「自分は自分だ」という以外に、これといった結論が見いだせなかった。
 しかしながら、ブルトマンの上に挙げた言葉が僕に答えを与えてくれた。それは、すなわち「人間の存在の意味は初めから答えることのできない問いであり、また、その存在はその時、その瞬間である」と。未熟な僕に思うところがあって、知りたかったことを、いつもながら、ブルトマンは教えてくれるのだ。

 以下は余談。
 昨日は荒子観音寺にて、施餓鬼会のお手伝いをしました。

Vol.63 ブルトマン著「恩寵と自由」(1948年)を読んで


 冒頭、「ピリピ二・一二以下のパウロの言葉に刺激されて」とあるように、本論を読んで、僕はブルトマンが筆者であるパウロの姿勢を問うている、と感じた。そして、一度読んだだけでは難し過ぎて、内容を確実には理解できず、二度、三度と読み返した。今もはっきりとは分からない箇所がある。だから、うっかりとまでは言わないけれど、いつものようには書けないし、書けそうもない。
 冒頭と文末には、『ピリピ人への手紙』第二章一二~一三節が引用されている。

 二章
 一二
 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
 一三
 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。