Vol.64 ブルトマン著「世界教会協議会のキリスト論的信仰告白」(1951/2年)を読んで


 ブルトマンは「世界教会協議会のキリスト論的信仰告白」の冒頭で、次のように問い、答えている。

 「世界教会協議会は、イエス・キリストを神として、また救済者として承認する諸教会から成り立っている」。さて、この信仰告白の表現が新約聖書に対応しているかどうかを吟味するという課題が、私に出された。私はこの問いに即座に、次のごとく、まったく短く答えることができる。すなわち、私にはそれは分からないと。(本書324ページ)
 

 ブルトマンの言葉を受けて、「世界教会協議会のキリスト論的信仰告白」については、本論の内容をまとめたりせず、僕が最も強く印象に残った箇所を取り上げたい。

 人間はそもそも、存在の意味を、つまり、歴史や文化の意味を問われているのではない。この問いは初めから不可能な、答えることのできない問いである。なぜならば、この問いの答えは、答えるものが、人間の存在、歴史、世界の外部にいることを確かに前提しているからである。人間はただ瞬間の意味を問われており、(私にはそう思われるのであるが)、また、このことは瞬間の要求を問われていることを意味する。(本書342ページ)

 学生時代、芥川賞の受賞作である『僕って何』を読んだことがある。自分とは何かといった、いわゆる自己のアイデンティティ(同一性)について、当時、僕なりに足りない頭で考えたけれど、「自分は自分だ」という以外に、これといった結論が見いだせなかった。
 しかしながら、ブルトマンの上に挙げた言葉が僕に答えを与えてくれた。それは、すなわち「人間の存在の意味は初めから答えることのできない問いであり、また、その存在はその時、その瞬間である」と。未熟な僕に思うところがあって、知りたかったことを、いつもながら、ブルトマンは教えてくれるのだ。

 以下は余談。
 昨日は荒子観音寺にて、施餓鬼会のお手伝いをしました。

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