Stay The Young (Trilogy)歌詞の中にあるような僕の今の等身大の声を書いています。聖書通読、円空仏、岡本太郎、霊場巡拝、どんぐり銀行、木の実拾い、公共配布カード、越冬昆虫採集、防災、星合信令観音巡拝。「東海・旅の足跡 2」の姉妹ブログです。
Vol.175 佐々真利子さんの法話を読んで
ブログ「Stay The Young (Trilogy)」をお読みいただき、ありがとうございます。
前回の更新(Vol.174)からの続きで、「聴聞のページ(ご法話のページ)」にある佐々真利子さんの「お念仏は大きな海 他20話」から僕の心に響いた法話を引用しつつ、読んだ感想を(参照)。
「先に出てる」
あるお方から、「あなたがおっしゃる”わるうても先に出てるでしょう”と、云われることが理解できません」と、お便り頂きまして大変有り難く、今日までのことを振り返って考えさせて貰いました。
四十五年前、小児マヒの不具な身体の上に脊椎カリエスに罹り、事実が私に都合悪くても、私の分別意識以前に、先々に出て来て始末がつかなくなって困り果てたのです。 勿論私なりに出て来る事柄を努力して私に都合の善い様にして来たと思っていた時代もありました。それで問題なかった時はそれで良かったのです。
でも問題になって来たのは、次々に出て来る事柄が私の思いに反し、又努力しても私の力や分別で何ともならなくなった所に問題となり、苦悩となったのです。
其処は、私という者が全く用をなさない地獄の真っただ中でした。而も、地獄絵の通り青鬼、赤鬼が容赦なく責めたてるように、罪悪に責められ、煩悩は火と燃えるのです。その地獄の底でのた打ち廻っている時初めてお念仏となって、「悪うても先に出てるでしょう、あなたの都合で活動してる世界ではありません、他力の世界です。訳はあなたに解らなくても脈々と大法界、他力の世界は無量寿・無量光に活動している世界です。解らなくてもそうなのです。お他力です。」との仰せがとどいて下さったのです。
決して私が解って、解ったのではありません。私の分別意識も、常識も間に合わない、全く地獄のその下でお待ち受け下さって、お念仏となって、一切他力だとお引き取り下さったのです。今振り返るとそういうことでございました。
仏様を上の方に祭り上げて、私を助けて下さい、出て来た現実を、私の分別常識で考えている善いこと、幸せと入れ換えて下さいと、拝んでいた間は遠い仏様でした。私には全く何の解決も出来なくなった所にお念仏さまが口を割ってお出まし下さって、地獄の底までお迎えに来て下さったのです。ただただ”なむあみだ仏”でございます。南無阿弥陀仏
「お救い」
たのめとは 助かる縁のなき身ぞと 教えて救う弥陀のよび声
というお歌がございます。私は、「助かる縁のなき身」ということと、「救う」の内容が解りませんでした。私が考えていたものと違っていたのです。
救いとは、常識的に上へ、上へとあがってゆく救い、救い上げて貰うものと思っていました。ところが、仏法のお救いは、お念仏の世界のお救いは、仏さまのお手の中から迷い出て、大分高上がりして困っているので、一段一段おろして、仏さまのお手の中まで帰してくださるお救いだったのです。
私はそのようなことは解らず、今のこの場が嫌いで、この場を私は好きな気にいるようにしよう、私の力で出来ないなら、神・仏様にお願いして私の都合のよい場と入れ換えて貰おう、この場から救い上げて貰おう、そうすると楽になるかのように思っていました。それがお救いだと思っていたのです。
ところが、上がると又落ちる、一つ解決ついても又他の苦悩が出て全く始末がつかないのです。それを「助かる縁のなき身」と仰せられていたのでございました。
散る桜 残る桜も 散る桜
自分だけでは散りたくない、恐い、としがみ着いてるその地獄の下から、「残る桜も散る桜やぞ、助かる縁は無いよ、個人の自由は無いよ、”なむあみだ仏”と親の名をよびなさい」と、親様は地獄の下にお待ちくださって喚んでいられたのでございました。勿体ないことでございます。
それを上に向かって索していたのでおよび声に遭えなかったのでございます。
”なむあみだ仏”お念仏称えさせて貰ったことが、私の助かる縁がなかったことを教えて頂いた証拠であり、阿弥陀仏のおよび声がとどいてくださったことだったのです。個人の救い、私の勝手気ままに救われる所が全く無くなったら、一切大法界、お他力のお働きが脈々と、無量寿・無量光に止まることなくご活動くださっていたのでございました。正遠先生は、
咲いて散り 咲いて散りつつ無量寿の ここはまことに寂光土かな
と、ご讃嘆なさっていられます。南無阿弥陀仏
上の文章(法話)を読んだ際、その中に出てくる「助かる縁のなき身」とは、まさしく僕のことだと思わざるを得ませんでした。僕の人生において、苦難を解決しても、また次に試練がやって来て、苦しみ深く、今はほとほと疲れています(人前では明るく、独りなると滅入ってばかり)。
そして、馬齢を重ねるたびに、つくづく自分は無力だ、と。
以下は余談。
明日という日を迎えるにあたって、ふさわしい話題でした。
下の写真は円空さんが書いた六字名号(南無阿弥陀仏)です。
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