Vol.112 『テサロニケ人への第一の手紙』と『ヨエル書』を読んで


 8月中旬に『テサロニケ人への第二の手紙』を読んでから(Vol.81)、ずいぶん日が経ってしまった。今日読んだ『テサロニケ人への第一の手紙』において、僕の心に響いた箇所を。

 二章
 七 むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。
 八 このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。

 四章
 一 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。

 四章一節の内容は『ピリピ人への手紙』の中に出てくる僕の好きな聖句を思い出した。その聖句とは三章一四節の「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。

 一七 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

 五章
 一〇 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。
 一六 いつも喜んでいなさい。
 一七 絶えず祈りなさい。
 一八 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

 一六から一八まで、畳みかけるような聖句の連続によって、まるでパウロの声が聞こえるようだ。
 

 五章二一節の「すべてのものを識別して、良いものを守り」はラインホールド・ニーバーの「Serenity Prayer (平静の祈り)」に通じるところがあるように感じた。
 ご存じないという方のために、下記に少しだけ引用すると、

 God,give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed,(以下略)。

 ところで、四章一五節の「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう」について、ブルトマンは「パウロの期待は満たされなかった」と書いている。ブルトマンが『テサロニケ人への第一の手紙』にほとんど言及していないことについては、いかに考えるべきであろうか、という疑問が僕の中で残ったままだ。
 また、今日は『テサロニケ人への第一の手紙』の他に『ヨエル書』も読んだ。以前に手を付けていたのだが、冒頭に「いなご」の襲来が出てくることから、今まで読む気が起きなかったのだ。
 さらに『ユダの手紙』も読んだのだが、それは別の機会に。

 以下は余談。
 前回の更新(Vol.111)にて、「オアシス21の銀河の広場にあるベンチに腰掛けて、『聖書』を読んでいた」と書いたが、それは『雅歌』であった。

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