Vol.127 『ヨブ記』を読んで


 『ヨブ記』はブルトマンによれば、「正しい者の苦難の問題」とあったことから、読む前から大いに期待していた。何らかの深い教訓や励まし等が得られるものと思い、今月4日に読んだが、僕の心にはあまり響かなかった。
 とは言っても、そこはさすが『聖書』だけあって、一筋縄ではいかない。
 『旧約聖書』には、詩の形式で表現されることが多いが、どれも抽象的過ぎて、なかなか実感できないけれど、三章二節から始まるそれには圧倒された。

 二 「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。
 一一 なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。腹から出たとき息が絶えなかったのか。
 一三 そうしなかったならば、わたしは伏して休み、眠ったであろう。そうすればわたしは安んじており、
 二〇 なにゆえ、悩む者に光を賜い、心の苦しむ者に命を賜わったのか。

 『ヨブ記』を読んでいたら、四〇章から印象が変わった。
 

 『ヨブ記』に関しては、ブルトマンに教えられることが多かったことから、それを記しておきたい。
 「人間の問いも訴えも、神の智恵と全能の前には沈黙しなければならないと告白する。敬虔な忍従」。
 「咎なくして、悩む者の謎がテーマである『ヨブ記』においては、悩める者の訴えは敬虔な沈黙で終わる」。

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