Vol.115 『ヘブル人への手紙』を読んで


 昨日と今日、つまり6日(土)と7日(日)に『ヘブル人への手紙』を読んだ。とりわけ一一章と一二章は僕の心を打つ言葉が並んでいた。

 一一章
 一三 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
 一四 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
 一五 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
 一六 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

 僕もまた「旅人であり寄留者」であることから、「天にあるふるさと」へ帰ることを望んでいる。

 一二章
 一 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
 二 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

 ここでもまた、『ピリピ人への手紙』に出てくる「目標を目ざして走り(三章一四節)」と同様、「走りぬこうではないか(走ろうではないか)」という呼び掛けが聞こえる。

 一二章
 一一 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
 一二 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

 上の聖句(一一節、一二節)はまさに今、悩み苦しんで、深い悲しみにあり、辛い毎日を送っている僕に向かって、投げかけられている言葉のように聞こえた。
 

 以下は余談。
 上の文章で「聞こえる」、「聞こえた」と表現している。その理由は、主の声が聞きたくて、『聖書』を読んでいるからです。

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