Vol.254 田川建三著『書物としての新約聖書』(勁草書房)を読んで


 ブログ「Stay The Young (Trilogy)」をお読みいただき、ありがとうございます。

 田川建三著『書物としての新約聖書』(勁草書房)を過日(16日夕)から数回に分けて、今夕(25日)読み終えました。
 はじめに「序」を、次に第四章七(616ページ)から「後書き」まで目を通して、第一章から第四章六といった順番で読みました。
 いったい、なぜ、そんな不規則な読み方をしたのか。答えは既に(このブログの)過去の更新のあちらこちらに記されている。
 約700ページの本書の感想を逐一書くのは、いささか無理のあることなので、僕が最も勉強(参考)になったと感じた箇所だけに的を絞ると、174ページの補遺1から197ページの補遺4であった。
 下の写真はそれに該当する本書の目次です。
 

 著者の田川氏がこのブログを読まれるはずはないので、生意気なことを書かせてもらうと、「以上のようなさまざまな目的を追求したした結果、どうしても頁数がふくらむのを避けることができなかった(本書ⅷページ)」と記しておられるが、くどくどと書くよりも、もっと読者を信用すれば良かったのに、と思う。せっかくの素晴らしい内容が、かえって読者を遠ざける結果となっているのでは、と感じた。もっともこれは著者のせいではなく、勁草書房の編集者の責任かもしれない。

 以下は余談。
 ひょんなことがきっかけで、過日、伝道師らしき人の書いたブログに目を通した。
 さすがに素人の僕とは違って、当然ながら、キリスト教(『聖書』)に対する知識が比較にならない。凄いな、と思うと同時に、悔しいというか、僕の心の中に、いわゆる「負けた感」が残った。
 しかしながら、今は違う。
 マジック(手品)に種と仕掛けがあるように、ブログに綴られている伝道師らしき人の知識には、仕入元があることが分かったからだ。
 さらに当人はユニークさが売りらしいが、冷静に読めば、どこか上滑りしているようにしか感じられない。
 そして、み言葉の解釈は一つではないことに、遅まきながら、僕は気が付いた。そのときから、僕の心には晴れ間がのぞき、光が差してきた。
 信仰は知識(の量)ではない。他人と比較する必要もない。
 僕は僕の道を走っている。

 『ピリピ人への手紙』
 3章
 13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
 14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

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