Vol.208 『ブルトマン著作集9』聖書学論文集3の2つの論文を読んで


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 過日、『ブルトマン著作集9』聖書学論文集3(新教出版社)に収録された2つの論文「解釈学的方法としての予型論の起源と意味」と「原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係」を読みました。
 


 以下は2つの論文の備忘録として、はじめに「解釈学的方法としての予型論の起源と意味」を取り上げる。

 旧約聖書が報告している人物、出来事、あるいは制度の中に、イエス・キリストの到来によって開始された救済の時が持つそれらに対応する人物、出来事、あるいは制度の「予めの写し」「前もっての叙述」を見出す解釈である。予型論としての表示の仕方はパウロに遡る。すなわち彼は、ローマ五・一四において、アダムをキリストの予型とし、第一コリント一〇・六において、荒野の彷徨の時代のイスラエル人たちをキリスト者の予型として表示している(本書3ページ)

 「個々の予型論的な解釈は、新約聖書のそこそこに見いだされる(13ページ)」とあることから、ここではいちいち言及しない。例えば、第二コリント三・七以下やヨハネ三・一四から一五、使徒行伝三・二一~二二などが取り上げられ、ブルトマンによる解釈がなされていた。
 次に「原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係」について。
 前半はブルトマンが主張する史的イエスとキリスト・ケーリュグマについて論じられている。史的なナザレのイエスと主であるキリストの連続性について論じた箇所(127~128ページ)を読んでいたら、ブルトマンが僕に対して、イエスとは誰かを教えてくれている、そんな気がした。後半の論調に関しては、やや難解で、僕の思考力では到底まとめることができなかった。しかしながら、文末の結論には一筋の光を見た。少し長文になるけれど、下に引用しておく。

 すなわちケーリュグマの担い手としての教会に対する信仰とは、復活信仰なのであり、その信仰は、ケーリュグマにおいてイエス・キリストが現在しているのだという信仰の中に存在するのである。わたしのケーリュグマの解釈によれば、イエスはケーリュグマの中へと復活したことになる、ということが、わたしに対する批判の大部分としてしばしば言われる。わたしはこの命題を認める。それは、それが正しく理解されるということを前提にすれば、全く正しいのである。その命題は、ケーリュグマそのものが終末論的出来事であることを前提としており、さらにイエスはケーリュグマにおいて現実に現在していること、そして、ケーリュグマにおいて聞くものに出会うのは彼の言葉であること、を意味している。そうだとすれば、復活者の存在様式に関するすべての思弁や、空の墓についてのすべての物語、さらにすべての復活伝説は、たとえそれがいかなる史的事実としての契機を含んでいようともまたそれらの象徴的内容においていかに真実であったとしても、どちらでもよいことになる。ケーリュグマにおてい現在するキリストを信仰することが、復活信仰の意味なのである(本書151ページ)。

 以下は余談。
 昨日の午後は期日前投票へ行きました。

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