Vol.59 ブルトマン著「アダムよ、あなたはどこにいるのか」(1948年)を読んで


 前回の更新(Vol.58)からの続きで、昨日読んだ『ブルトマン著作集 12 神学論文集 2』に収録されている論文「アダムよ、あなたはどこにいるのか」について、以下の引用は僕の備忘録である。

 「旧約聖書の文献には、(実際、他のオリエントの文献と同じように)人間の運命や人間の苦悩についての非常に多くの言葉が鳴り響いており」

 「他のオリエント、あるいはギリシアの文学に見いだされる。人間が、なんらかの意味や利点を認識することができないで、身をさらされている宿命の渦巻く変遷に対する嘆きは、つねに、くりかえしてひびきわたる。個々の声の固有なるひびきは、全体の合唱のなかで消えうせていく。あたかも波の特別な形が、大海の一様なうねりのなかに消えうせるように」

 「歴史のなかで人間は、その決断と運命とによって、自己の独自性を獲得する。それゆえに、人間の固有の生は、個別的なもの、そのつどの出会いの領域において、生ずる。そのつどの決断(それが行動への決断であろうと、運命にむかって自己を開くか、閉じるかの意思であろうと)」

 「さらにまた、人間は、この世では、旅人、寄留者として歩んでいるのであり、人間の生が、そこで演じられる歴史的な出会いは、どのひとつをとってみても」
 

 上に挙げた引用は僕が「アダムよ、あなたはどこにいるのか」を読んで、テキストに線を引いた箇所である(やっぱりブルトマンの聖書解釈は凄いな、と。読んで、興奮させられる)。
 『聖書』はずっと昔に書かれたはずなのに、時空を超越して、現代に生きる人たちへ、そして、僕に向かって、こうして呼びかける。「あなたはどこにいるのか」と。

 以下は余談。
 今朝は午前3時過ぎに起床。今、これを書いている午前4時過ぎ、外では鳥たちの鳴き声がうるさいくらいだ。窓から見ると、東の空から光が差してきて、木々や電柱、アンテナが赤く染まっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿