Vol.54 ブルトマン著『ヨハネの手紙』(日本基督教団出版局)を読んで


 少し時間が経ってしまい、ブルトマン著、川端純四郎訳『ヨハネの手紙』(日本基督教団出版局)を読んだ際の感想を上手に書けるかどうか分からない。
 最初に本書を読んだきっかけについて触れておくと、ブルトマン著『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)を読んだ際、巻末にあった目録に本書を見つけた。「ブルトマン最後の作品であり、聖書研究の終着点」と紹介されていた。
 

 『ヨハネの第一の手紙』
 1・1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―
 1・2 このいのち(言)が現れたので、この永遠のいのち(イエス)をわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのち(イエス)は、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―
 1・3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。

 上に記した『ヨハネの第一の手紙』の冒頭を整理すると、「いのちの言(ロゴス)について、わたしたちはあなたがたに告げ知らせる。それは初めにあったものであり~」となる。文章がねじれていて、一読して分かりづらい。けれども、ブルトマンの釈義によって、僕なりに理解することができた。ロゴスを告げ知らせ、イエスと交わる、ということを。
 さらに続けて、

 1・5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
 1・6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

 光とは自分の道を見い出すために必要としている明るみ。信仰者は歩いている存在で、常に途上である、ということ。

 さて、こうした僕なりの理解を逐一、記述し続けて行くことは、諸々の事情により、止めておく。
 ブルトマンの著作は、いずれも読んでいる最中が「しんどい」けれど、楽しい。そして、著作の読後、論じられている素材(今回はヨハネの第一、第二、第三の手紙の3つ)を読み返すと、それ(素材)がさらによく分かるということ。
 後になって言えることではあるけれども、ブルトマンの著作である『ヨハネの手紙』を読みたいから、聖書の『ヨハネの第一の手紙』、『ヨハネの第二の手紙』、『ヨハネの第三の手紙』を読んだと言っても過言ではない。こう記したら、本書に対する僕の感動が伝わるだろうか。

 以下は余談。
 今日の午前中は長谷川公茂先生とお会いして、円空さんの打ち合わせでした。

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