Vol.62 『エレミヤ書』第三三~五二章を読んで


 前回からの更新(Vol.61)の続き。

 三三章
 三二
 天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない。そのようにわたしは、しもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビびとである祭司の数を増そう」。

 「天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない」を読んで感じたのは、隔世の感があるということ。都市部では、プラネタリウムにでも足を運ばなければ、夜空を見上げても、星は数えるほどしか目にすることはできない。全国の砂浜では、浸食が深刻な問題となっている。

 四〇章
 四
 見よ、わたしはきょう、あなたの手の鎖を解いてあなたを釈放する。もしあなたがわたしと一緒にバビロンへ行くのが良いと思われるなら、おいでなさい。わたしは、じゅうぶんあなたの世話をします。もしあなたがわたしと一緒にバビロンには行きたくないなら、行かなくてもよろしい。見よ、この地はみなあなたの前にあります、あなたが良いと思い、正しいと思う所に行きなさい。

 直後の五節にも、「あなたが正しいと思う所へ行きなさい」という表現が出てくる。ブルトマンの釈義によれば、『聖書』の世においては、人は誰でも(僕も)旅人、寄留者である。さすれば、人が生まれてから死ぬまでの歩みは、すなわち、正しいと思う所へ行く、ということなのだ、と。

 五一章
 六三
 あなたがこの巻物を読み終ったならば、これに石をむすびつけてユフラテ川の中に投げこみ、
 六四
 そして言いなさい、『バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない。わたしがこれに災を下すからである』と」。ここまではエレミヤの言葉である。

 僕個人の感覚なのだが、旧約聖書は新約聖書と比較して、どれも読みづらい。『エレミヤ書』はこれまでに僕が読んだ中で、最も長い(章数の多い)。読み通せた理由を考えると、エレミヤ書はその内容もさることながら、筆者によるところが大きいように感じた。
 最後に、エレミヤが「ミヅパ」という地名の場所を訪れるのだが、自分なりに調べてみたけれど、それがどこだか分からなかった(もしもこれを読んで『聖書』の場所に詳しい人がいたら、ぜひともご教示ください)。
 

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