Vol.52 ブルトマン著作集 11 神学論文集1(新教出版社)を読んで


 ブルトマン著、土屋博訳『ブルトマン著作集11』「神学論文集1」(新教出版社)に収録されている論文を読みました。
 収録されている論文の内、「ヨハネ福音書の終末論」(1928)については、既に姉妹ブログである「東海・旅の足跡 2」で触れたことから、それ以後に読んだ論文について、僕なりに書き残しておきたいと思います。
 

 本書に収録されている15編の論文の内、僕が目を通した5編の順番を整理しておくと、「ヨハネ福音書の終末論」が最も早く、次に「神を語ることは何を意味するのか」で、「カール・バルト著『死人の復活』」を途中まで読み、続けて「新約聖書のキリスト論」を、最後に「『自然神学』の問題」を読み終えました。
 「カール・バルト著『死人の復活』」については、素材となっている『コリント人への第一の手紙」』を僕がまだ読み終えていないことから、「途中まで」となっています。また、収録されている15編の論文の内、目を通していない10編については、僕の興味の範囲外にあることから、いつものように読み込むのではなく、参考程度にと思います。
 前置きが長くなってしまいました。
 

 「新約聖書のキリスト論」(未公刊)について。
 興味の赴くまま、論文の途中(298ページ)から読み始めて、文末(301ページ)まで目を通すと、冒頭(279ページ)から読み、再び途中(297ページ)までに戻る、といった読み方をした。
 読み始めた途中の箇所は次のように書かれていた。

 ヨハネにとってキリスト論が宣教・語りかけであることは、ヨハネが(神話論的表現を採用して)イエスをロゴスすなわち神の言葉として表すことのうちにすでに示されている。イエスは、言葉とならぶものではなく、また、そのようなものを意味するのでもない。彼は言葉である。

 さて、本題へと進みたい。
 本稿の内容は、1、イエスの人となり。2、キリスト祭儀。3、イエス・キリストへの信仰となっている。
 以下は3のイエス・キリストへの信仰を読んだ僕なりのまとめである。

 キリスト論とは、宣教であり、語りかけである。教説(キリストの復活)が宣教されるときには、聴き手は語りかけられ、これを信じるかどうか。
 パウロのキリスト論は、(キリストの起こした)神の救済行為の宣教で、神の言葉である。その言葉に対応するのが信仰であり、宣教に対応するのが信仰者の新しい理解である。キリストの恵みを認識することがキリストを認識すること。
 パウロについて述べられたことは、ヨハネのキリスト論の解釈にも当てはまる。ヨハネはパウロ以上にイエスと神の統一性を強調する。

 尚、訳者あとがきに記されている「最後の決定的な時である今、イエスがそれを語るという事実が決定的なのである」に該当する本稿の部分が僕には完全には理解できなかった。
 残り3編の論文については、次回の更新へ続きます。

 以下は余談。
 今夕は長谷川公茂先生とお会いして、円空さんの打ち合わせでした。

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