Vol.82 『マタイによる福音書』第一~一六章を読んで


 過日(16日)、『マタイによる福音書』を午前と午後の2回に分けて読みました。
 前回の更新(Vol.81)に関連して、『ヨハネ』『ルカ』『マタイ』といった不規則な順番で読むのも、僕らしいかな、と。
 少し気が早いですが、いつか『マルコ』を読み終えたら、すぐさまブルトマン著作集『共観福音書伝承史』(新教出版社)を読みたいです。むしろ、『共観福音書伝承史』を読みたいがために、といっても過言ではありません。
 以下に引いたのは僕が共感した箇所で、『ヨハネ』と『ルカ』に重複する箇所は省いてあります。

 五章
 一二 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
 六章
 二二 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
 二三 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
 三四 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 一〇章
 四二 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。
 一一章
 二八 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
 一四章
 二九 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
 一六章
 一九 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

 六章三四「思い悩むな」と一一章二八「わたしのもとに来なさい」はクリスチャンに限らず、多くの人たちの心を打つ言葉であろう。
 一四章二九について、口語訳では「イエスは、『おいでなさい』と言われた」となっており、新共同訳では「イエスが『来なさい』と言われた」となっている。原語で「おいでなさい」「来なさい」は、何と書かれているのかを知らないし、どちらの訳でも構わないのだが、僕がイエスから言われたい言葉があるとすれば、この一言に尽きる。
 『マタイによる福音書』を読むと、イエスの呼ぶ声が聞こえる。
 

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