Vol.86 続『ブルトマン著作集5』新約聖書神学3(新教出版社)を読んで


 前回の更新(Vol.85)からの続きで、『ブルトマン著作集5』の第五七章「神論と宇宙論」と第五八章「キリスト論と救済論」を読んだ感想を記したい。どちらも大変勉強になったから。
 第五七章「神論と宇宙論」について、キリスト教と『聖書』において宇宙はいかに考えられているのかを知ることができた。
 ブルトマンは『コロサイ人への手紙』の第一章一五~二〇を具体例として取り上げていた。

 第一章
 一五 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
 一六 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
 一七 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
 一八 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
 一九 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、
 二〇 そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。

 ブルトマンの言葉を僕なりに理解すれば、以下のようになる。
 上に引いた第一章一五~二〇には、キリストの宇宙的位置が記述されており、宇宙的諸力はそこに起源と存在の根拠を持つ。宇宙全体の構造がキリストの身体と理解され、その頭がキリストである。キリストの身体が教会であるならば、教会は目に見える教会を超えた宇宙的存在であって、宇宙を有機的建造物として把握する。
 

 第五八章「キリスト論と救済論」は個々の書(手紙)に沿った具体的な内容になっている。『新約聖書』の中から取り上げられていた内、『ペテロの第一の手紙』、『ペテロの第二の手紙』、「牧会書簡」と称される『テモテへの第一の手紙』と『テモテへの第二の手紙』と『テトスへの手紙』、『ユダの手紙』について、僕は理解を深めることができた。
 たとえば、『ペテロの第二の手紙』について、手紙の目的はキリストの再臨への疑いと戦い(1章16、3章4、3章12)、目前に迫った審判の真剣さと、純潔な生活を過ごすことへの責任を教え込むことにある、というのがブルトマンを読んだ僕の理解である。

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