Vol.104 ブルトマン著「古代における光の象徴的使用の歴史」を読んで


 『ブルトマン著作集8』聖書学論文集2(新教出版社)に収録されている「ペテロ第一の手紙にある告白および讃歌の断片」と「古代における光の象徴的使用の歴史」を読んだ。

 はじめに「ペテロ第一の手紙にある告白および讃歌の断片」について。
 三章一八~二二節を論じており、それに付随して、四章五節と一章一八~二〇節も取り上げられている。

 次に「古代における光の象徴的使用の歴史」について。
 光について、様々な文献資料を挙げて、その意味するところ(象徴的使用)を歴史的に論じている。

 「光と闇は永遠に交わらない」、「もはや主体も客体もなく」、「光は自分の道を見出すことを教える」。
 「肉体の目と心の目」、「見ることは触れること」、「光を媒介して見る」。
 「私が光の中にいることではなくて、私が光、すなわち不死の力を私の中に持つ」。

 いつぞやも書いたけれど、ブルトマンの古代ギリシアの詩と文学に対する教養には圧倒される。ヘロドトスはもちろんのこと、プラトンやストア、そして僕はこの論文を読んで、恥ずかしながら、プロティノスの『エンネアデス』を初めて知った。

 「自分はもはや何物も必要としないこと、それどころか、他のものをことごとく脱ぎ捨てること、その真の生命 だけで満ち足りること、身にまとっている他のものをすべて放棄し、純粋に自分一人となって、真の生命になることが大切なのだということを、知る。従ってわれわれは、この地上から逃れ出ることを切に求め、われわれを他のものに縛りつけている束縛について嘆き、ついにわれわれ自身の全体をもってかのものを抱擁し(後略)本書202ページ引用」。

 文末には、礼拝空間の形態について論じてられているのだが、ギリシア神殿のような明るい日の光の中ではなく、密儀集団の祭儀は洞穴のような閉ざされた空間で行われる。キリスト教会が礼拝空間の模範としたのは、ギリシア神殿ではなく、暗さと神秘的な光とを伴った、密儀の閉ざされた礼拝空間であった、と指摘されているのを読んで、思わずハッとさせられた。
 最後に、注釈に目を通していたら、「足」の字が横向きになっているのを見つけた。下の写真がそれで、もしこれが人間だったら、お行儀が悪いと叱られるでしょうね。
 

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