Vol.108 法然上人の「月影」と『ヨハネによる福音書』


 法然上人の詠まれた和歌である「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」は僕が二十歳前後の頃、いつも口ずさんでいた言葉のひとつである。
 そして、それに応えるようにして、「南無阿弥陀仏」と唱えていた。
 夜、空を見上げて、月を眺めれば、僕にとっては、輝く月が法然上人であり、月の光が「阿弥陀の慈悲」であった。
 

 学生時代、下宿の窓からやサークル活動からの帰り道で、あるいは銭湯への往復の際など、自分がどんな気持ちで月を目にしていたのか。今にして思えば、無邪気で、苦しいことも多々あったけれど、実に幸せだった。
 今現在は(また、これからも)馬齢を重ねて、実にただ苦しいだけ。この世は試練の連続で、悩みが絶えず、僕には修行の場としか思えない。そんなことはない、という反対意見の人に対しては、次の言葉を。

 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(『ヨハネによる福音書』16章33節)。

 もう少し付け加えると、僕は逆説的に考えています。人生は修行の場であるからこそ、悩みがあり、試練の連続です。平安はいずこに。

0 件のコメント:

コメントを投稿