Vol.111 イリューシェチカの葬式。石のそばでの演説


 久しぶりに名古屋市営地下鉄に乗車した。名古屋の都心部はいつも自転車で移動しているが、今朝は台風の接近ということで、やむを得ず。
 

 時間調整も兼ねて、オアシス21の銀河の広場にあるベンチに腰掛けて、『聖書』を読んでいたら、ハトとスズメが足元へやって来た。
 

 「エサを与えないでください」という看板があるのを見つけた。ハトとスズメはきっと周辺にあるマクドナルドなどの飲食店の利用者たちの食べこぼしを探していたのだろう。
 いったい何を書きたいのかと言えば、その瞬間、僕は自分が大好きなセリフを思い出していた。スネギリョフ大尉が主人公アリョーシャに語り掛ける、あのセリフを。

 「夜中にあの子が寝ているわきに、わたしが坐っていましたら、だしぬけにこう申したんですよ。『パパ、僕のお墓に土をかけるとき、雀たちが飛んでくるように、お墓の上にパンの耳を撒いてやってね。雀がとんでくるのがきこえれば、お墓の中に一人で寝ているんじゃないことがわかって、僕、楽しいもの』って」(ドストエフスキー著・原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(下)』新潮文庫)。

 『カラマーゾフの兄弟』は僕に『聖書』を読むキッカケを与えてくれた本だ。エピローグの三「イリューシェチカの葬式。石のそばでの演説」を久しぶりに再読したら、そこに今の僕が求めていた答えが記されていた。答えがこんな身近な足元にあったなんて!
 「カラマーゾフ万歳!」

Vol.110 『エズラ記』と『ネヘミヤ記』を読んで


 『旧約聖書』は『新約聖書』と比較して、どうしても僕の心に響く聖句が少ない(断わっておくと、本来、比較するべきではないことは重々、承知しています)。
 今まで目を通した『旧約聖書』(計16)の中では、『エレミヤ書』に最も心惹かれた。
 過日(27日)に読んだ『ネヘミヤ記』では、以下の箇所が僕の心に必要なことを指示していると思えた。

 八章
 九 総督であるネヘミヤと、祭司であり、学者であるエズラと、民を教えるレビびとたちはすべての民に向かって「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言った。すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである。
 一〇 そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
 

 「主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない」
 「主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」

 静かというか、落ち着いたというか、それでいて、力強いメッセージだ。今の僕には、現実には難しくても、そうしなければならないのだと、教えてくれる。さらに僕がとりわけ気に入ったのは、「甘いものを飲みなさい」というフレーズで、それだけでどんなにか、心も身体も慰められるかを僕は知っているから。
 続く一二節には、「すべての民は去って食い飲みし、また分け与えて、大いに喜んだ」とあることから、民は本当に嬉しかったのだろう、と。
 『ネヘミヤ記』の前には、もともと一冊であったと知ったことから、過日(23日)に『エズラ記』を読んでいた。エズラに関しては、『エズラ記』よりも『ネヘミヤ記』での活躍が印象に残った。

Vol.109 『聖書』の名言 『マタイによる福音書』第六章三四節について


 『聖書』に記された名言の内、代表的な一つの聖句は『マタイによる福音書』第六章三四節の

  だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

であろう。
 

 上の聖句は『マタイによる福音書』において、イエスの語ったセリフになっているが、ブルトマンによれば、実際の出所は当時のことわざのようなもので、教会の編集作業による言葉であるという。
 さらには少し前の箇所(六章二七節)に次のような聖句が記されている。

  あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

 同じく共観福音書の『ルカによる福音書』には、一二章二〇節において、

  すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。

とある。
 ブルトマンによれば、「神は単純に、人間から思い煩いを取り去って、人間が自分の世界でくつろぎ、気楽にふるまえるようにしてくださる方ではない(『ブルトマン著作集』8巻、27ページ引用)。
 「思いわずらうな」と語りかけ、励ましてくださっているのかと思いきや、恥ずかしながら、僕は『聖書』の名言を自分の都合に良いように解釈していたことに気付かされた。

Vol.108 法然上人の「月影」と『ヨハネによる福音書』


 法然上人の詠まれた和歌である「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」は僕が二十歳前後の頃、いつも口ずさんでいた言葉のひとつである。
 そして、それに応えるようにして、「南無阿弥陀仏」と唱えていた。
 夜、空を見上げて、月を眺めれば、僕にとっては、輝く月が法然上人であり、月の光が「阿弥陀の慈悲」であった。
 

 学生時代、下宿の窓からやサークル活動からの帰り道で、あるいは銭湯への往復の際など、自分がどんな気持ちで月を目にしていたのか。今にして思えば、無邪気で、苦しいことも多々あったけれど、実に幸せだった。
 今現在は(また、これからも)馬齢を重ねて、実にただ苦しいだけ。この世は試練の連続で、悩みが絶えず、僕には修行の場としか思えない。そんなことはない、という反対意見の人に対しては、次の言葉を。

 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(『ヨハネによる福音書』16章33節)。

 もう少し付け加えると、僕は逆説的に考えています。人生は修行の場であるからこそ、悩みがあり、試練の連続です。平安はいずこに。

Vol.107 『ブルトマン著作集』8巻(聖書学論文集2)を再読して


 『ブルトマン著作集』8巻(聖書学論文集2)に収録されている2つの論文「イエスとパウロ」と「コリント人への第二の手紙の釈義上の諸問題」についての備忘録。

 「イエスとパウロ」について。
 イエスにおいては、信仰は率直な神への信頼に他ならない。
 パウロにおいては、十字架につけられ、復活したイエス・キリストに対する信仰である。
 人間の相互関係において、罪を犯した者は、自分で悔いさえすれば、他者の赦しを得ることができるのではなく、他者が実際に彼(罪を犯した者)を赦してくれるときに初めて赦される。
 パウロにとって、イエス・キリストとは赦しを与える神の言葉なのである。
 

 「コリント人への第二の手紙の釈義上の諸問題」について。
 本論では、『コリント人への第二の手紙』の5章1節~5節とそれに付随して、4章17節と18節。5章11節から6章10節まで。10章から13章までが取り上げられている。
 『コリント人への第二の手紙』はパウロの書いた複数の手紙が、後に一つの手紙となった。大まかな区切りとして、1章から9章、10章から13章、6章14節から7章1節である。
 ブルトマンによれば、さらに以下のような4つに分類されていた。
 (A)1章1節から2章13節、7章5節~16節。
 (B)2章14節から6章13節、7章2節から4節、10章1節から13章13節。
 (C)6章14節から7章1節。
 (D)8章1節から9章15節。
 

 以下は余談。
 以前の更新(Vol.42)に関連して、昨日の午前中は荒子観音寺へ行き、フランスから戻って来た円空仏のお手伝いをしました。
 

Vol.106 『コリント人への第二の手紙』第一〇~一三章を読んで


 前回の更新(Vol.105)からの続きで、『コリント人への第二の手紙』について。
 第一~九章と第一〇~一三章と、2回に分けた理由は『コリント人への第二の手紙』が『コリント人への第一の手紙』と同様、複数の手紙が後に一つになり、大まかな区切りとしては、第一~九章と第一〇~一三章である、とされていることから。
 

 第一〇章一節には「『あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる』このパウロが」と記されている。けれども、なかなかどうして僕はパウロとは何と激しい人だろうと思わずにはいられない。分かっているけれども、もしパウロと面と向かったら、誰しもさぞや圧倒されることだろう。

 第一二章
 九 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
 一〇 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

 『コリント人への第二の手紙』を読んだ際、改めてパウロの宣教旅行とローマへの行程が記された地図を目にした。いわゆる「パウロ書簡」には自然描写が少ないことから、パウロの目に地中海はどのように映っていたのであろうか。
  忘れずに記しておくと、『コリント人への第二の手紙』を通読したことから、『ブルトマン著作集』8巻に収録されている論文「コリント人への第二の手紙の釈義上の諸問題」を改めて読んだ。

Vol.105 『コリント人への第二の手紙』第一~九章を読んで


 以前の更新(Vol.81)にも書いたことだけれど、またもや「第二」の手紙から読んでしまった。『ペテロの手紙』も『テサロニケ人への手紙』も順番通りの「第一」からではなくて、これはもう僕の性分としか言いようがない。
 はじめにブルトマン著作集において、『コリント人への第二の手紙』の中で、何度となく取り上げられる箇所は二章一四節以下、四章七節以下、五章一六節以下、六章二節以下である。大事なことだから、忘れずに記しておきたい。
 僕個人が心を打たれ、教訓にすべき箇所は上に挙げたのとは少し違っているけれども、ブルトマンから教わったことには違いない。

 五章七節
 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

 五章七節はブルトマンの釈義によれば、人は中間段階を歩いているのであり、信仰者の終末的実存は現世的現象ではなく、新たな自己理解によって実現されるとのこと。

 七章一〇節
 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。

 「この世の悲しみは死をきたらせる」を読んだとき、確かにそうだ、と。だから、自殺する人がいる(僕はそれを責めたりしない)。
 

 悲しみとは2種類あることを僕は知った。これから僕は生きて行くうえで、きっと僕の受ける悲しみはどちらだろうかと考えるようになるだろう。

 以下は余談。
 今朝は午前4時前に起きて、この数日、憂鬱な気持ちで過ごしていることから、気晴らしにと、録画しておいたNHK BSの「池内博之の漂流アドベンチャー3」を見た。過去の放送も欠かさず見ているが、毎回、ヨットに乗っている気分にさせられて、実に面白い番組だ。実際のところ、船酔いの酷い僕には無理だから、尚更である。

Vol.104 ブルトマン著「古代における光の象徴的使用の歴史」を読んで


 『ブルトマン著作集8』聖書学論文集2(新教出版社)に収録されている「ペテロ第一の手紙にある告白および讃歌の断片」と「古代における光の象徴的使用の歴史」を読んだ。

 はじめに「ペテロ第一の手紙にある告白および讃歌の断片」について。
 三章一八~二二節を論じており、それに付随して、四章五節と一章一八~二〇節も取り上げられている。

 次に「古代における光の象徴的使用の歴史」について。
 光について、様々な文献資料を挙げて、その意味するところ(象徴的使用)を歴史的に論じている。

 「光と闇は永遠に交わらない」、「もはや主体も客体もなく」、「光は自分の道を見出すことを教える」。
 「肉体の目と心の目」、「見ることは触れること」、「光を媒介して見る」。
 「私が光の中にいることではなくて、私が光、すなわち不死の力を私の中に持つ」。

 いつぞやも書いたけれど、ブルトマンの古代ギリシアの詩と文学に対する教養には圧倒される。ヘロドトスはもちろんのこと、プラトンやストア、そして僕はこの論文を読んで、恥ずかしながら、プロティノスの『エンネアデス』を初めて知った。

 「自分はもはや何物も必要としないこと、それどころか、他のものをことごとく脱ぎ捨てること、その真の生命 だけで満ち足りること、身にまとっている他のものをすべて放棄し、純粋に自分一人となって、真の生命になることが大切なのだということを、知る。従ってわれわれは、この地上から逃れ出ることを切に求め、われわれを他のものに縛りつけている束縛について嘆き、ついにわれわれ自身の全体をもってかのものを抱擁し(後略)本書202ページ引用」。

 文末には、礼拝空間の形態について論じてられているのだが、ギリシア神殿のような明るい日の光の中ではなく、密儀集団の祭儀は洞穴のような閉ざされた空間で行われる。キリスト教会が礼拝空間の模範としたのは、ギリシア神殿ではなく、暗さと神秘的な光とを伴った、密儀の閉ざされた礼拝空間であった、と指摘されているのを読んで、思わずハッとさせられた。
 最後に、注釈に目を通していたら、「足」の字が横向きになっているのを見つけた。下の写真がそれで、もしこれが人間だったら、お行儀が悪いと叱られるでしょうね。
 

Vol.103 『ブルトマン著作集13(神学論文集3)』を読んで


 『著作集13(神学論文集3)』に収録されている論文の内、とりわけ参考になり、勉強になったのが「新約聖書における啓示の概念」と「新約聖書における歴史と終末論」である。
 「新約聖書における啓示の概念」では、『コリント人への第二の手紙』の前半(6章10節まで)について、解釈がなされていた。
 「新約聖書における歴史と終末論」では、ブルトマンが決まって取り上げる『聖書』の箇所(これについては前々回の更新を参照)がコンパクトにまとめられ、記されていた。
 

 『聖書』と照らし合わせながら、『ブルトマン著作集』を読んでいる時間は、この世での嫌なことを忘れさせてくれるから、実に幸せだ。

 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(『ヨハネによる福音書』16章33節)。

Vol.102 『聖書』のブックカバー


 以前の更新(Vol.31)にて、ZARAで買い物をした際の紙袋を『聖書』のブックカバーに再利用したと書きました。
 下の写真がそれで、毎日、手にしていたことから、ボロボロになってしまい(画面左上)、今朝、新しいものを作って(画面右下)、交換しました。
 

 今まで使っていたものは色も少しばかり黒くなってしまい、新しいものは紙の手触り感が全く違い、手に持っていて、気持ちが良いです。
 『聖書』のブックカバーに紙袋の、それも再利用なんて、けしからん、という声が聞こえてきたら、僕は大いに反論したい。『聖書』のブックカバーは革製だったり、ファスナー(チャック)やボタンで留めたりといった端正で、高級なブックカバーが主流のようですが、それに僕はいつも違和感を覚えています。質の優れたブックカバーは長く使えるなどの利点があるのかもしれない。大切な『聖書』を大事にすることは、当たり前のことですが、聖職者でもない僕にはそうしたブックカバーは似合わないし、紙の資源を再利用することの、どちらが(キリスト教的に)正しいと言えるのか、誰か教えて欲しい。

 買う者は持たないもののように(『コリント人への第一の手紙』七章三〇)

Vol.101 ブルトマンにおける『聖書』からの引用


 101回目の更新ということで、今回からまた生まれ変わったようなつもりで書きたい。そう思って、ふさわしい話題を探そうとしたら、ごく身近にあったことに気が付いた。
 

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(『コリント人への第二の手紙』第5章第17節)

 上に挙げた箇所は、ブルトマンを読んでいると、盛んに引用されている。それだけ、大事な箇所なのであろう。そうした箇所は、他にもいくつかあり、以下に列挙して、僕の備忘録としたい。

 『ヨハネによる福音書』
 五章
 二四 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである(『ヨハネの第一の手紙』三章一四も同様)。
 八章
 一二 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
 一六章
 三三 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

 『コリント人への第一の手紙』
 七章
 二九 兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、
 三〇 泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、
 三一 世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。

 『ガラテヤ人への手紙』
 四章
 四 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。

 『ピリピ人への手紙』
 三章
 一二 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
 一三 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、

 上記の他にも、まだたくさん引用されている箇所(たとえば『ローマ人への手紙』において、一章、三章、一〇章三、四は「義」について。七章四~七、一〇~一六は「律法」について)がある。けれども、とにもかくにも、上に挙げた箇所は、『ブルトマン著作集』を読んでいると、とりわけよく出てくるのだ。

Vol.100 村田和人 「太陽の恋人」と「Paradise Road」


 このブログは誰も読んでいないだろうと思い、自由気ままに書いて、とうとう100回目の更新になるとは、自分でも驚いています。
 さて、記念すべき(?)100回目の更新は、やはり何と言っても、僕が大好きな村田和人さんの話題です。
 

 毎朝、目覚まし代わりに聴いているのは「太陽の恋人」なのだが、最近は無性に「Paradise Road」を聴きたくなるときがある。安藤芳彦さんの素晴らしい作詞と村田さんの歌声が重なって、僕を励ましてくれるのだ。
 このブログを書き始めてから、それに気が付いた。

  少年の頃の夢は ポケットのどこかに 
  しまってあるから 心配はいらない

 つまり、「Stay The Young」から始まって、今は「Paradise Road」のような途中にあるということを。

 以下は余談。
 今日の午後は長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会へ顔を出しました。
 

Vol.99 ブルトマン著作集 共観福音書伝承史1、2巻(新教出版社)を読んで


 過日(先月の22日と25日と29日)に読んだ『ブルトマン著作集2』共観福音書伝承史2と今日ざっと目を通した『ブルトマン著作集1』共観福音書伝承史1について。
 

 マルコ、マタイ、ルカの福音書の細部にまで至るブルトマンの分析を読んで、些細なことだけれども、重要なことに気づかせてくれた。言うなれば、ブルトマンは「違いの分かる男」として、尊敬に値する。
 また、福音書における3という数字と2という数字の意義(2巻188ページ)、マタイにおける時間表示(2巻246ページ)、ルカが福音書よりも使徒行伝を(2巻268ページ)といった、僕が知らなかったり、気づかなかったりしたことも教えられた。
 同じ共観福音書伝承史を扱っている著作集の1巻と2巻ではあるけれども、上に記したように僕は2巻の内容に大いに興味を持った。
 

 もちろん、1巻の内容にも感心させられた。たとえば、主の言葉を分類するのに「エレミヤ書」18章18節を引き合いに出した箇所など。
 最後に、以前の更新(Vol.81)で、「『聖書』において、第一の手紙と第二の手紙があると、どういう風の吹き回しなのか、順序通りではなくて、第二の手紙から読みたくなってしまう」と書いたが、今回のブルトマン著作集も同様に2巻から読んでしまった。

 以下は余談。
 99回目の更新は9月9日に、と思っていたのですが、そう都合よくは行かず。

Vol.98 『創世記』第一四~五〇章を読んで(自己解説)


 過日(4日)に『創世記』第一四~五〇章を読みました。
 アブラハムが偉大過ぎて、イサクを一回り小さく感じたり、ヤコブとヨセフの生涯は凄いけれど、彼ら自身に魅力を感じなかったりと、『創世記』の中盤から後半にかけても、大事な箇所がたくさんあるけれど、逐一記したいとは思わない。
 『創世記』に出てくる女性では、ハガルの存在が僕は気になった。厳密に言うと、ハガルと主の使い、もしくは神との係わりが、である。そして、イシマエルについても。

 一六章
 七 主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、
 八 そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。
 九 主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。
 一〇 主の使はまた彼女に言った、「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。
 一一 主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。
 一二 彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。
 一三 そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、「あなたはエル・ロイです」と言った。彼女が「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」と言ったことによる。

 二一章
 一三 しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。
 一四 そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
 一五 やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
 一六 「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
 一七 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。
 一八 立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。
 一九 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。
 

 以下は余談。
 今日の午後はすいとぴあ江南へ行き、下の写真にあるように展望台から景色を眺めました。
 

 あいにくのくもり空でしたが、高い場所からの景色を目にして、少し気分が晴れました。

Vol.97 『創世記』第五~一三章を読んで(自己解説)


 ノアの箱舟と洪水、バベルの塔、アブラハムの召命など、印象深い箇所が多々ありますが、例によって、ここで僕は聖書の解釈をするつもりはありません。それは研究者や牧師様にお任せして、僕はただ感じたことを感じたまま、正直に記したい、ただそれだけです。

 九章
 一三 すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。
 一四 わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。
 一五 こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。
 一六 にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。
 

 空を見上げて、虹を目にしたなら、僕は上記に引いた神の言葉を思い出すだろう。神は「にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て」とあることから、神が見ているのと同じ虹を、僕も目にしているのだ、と。

Vol.96 『創世記』第一~四章を読んで(自己解説)


 先月末(30日)、とうとう(ようやく、か)『創世記』に目を通し始めて、途中、中断を挟んで、結果的に3回に分けて、昨日(4日)読了した。
 『旧約聖書』だけに限れば、『ルツ記』、『ヨナ書』、『箴言』、『詩篇』、『エレミヤ書』、『ハガイ書』、『ヨシュア記』、『ハバクク書』、『エステル記』、『哀歌』の順に読んで、モーセの五書の内、他の四書もまだ残ったまま。つまり、気の向くままに読んでいたけれど、冒頭に書いたように「とうとう」必要に迫られて、大いに手こずりながらも、何とか読んだ。
 天地創造、アダムたち、ノアの箱舟と洪水、バベルの塔、イスラエルの歴史(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ)など、どれも壮大な内容で、物事の始まりはいつでも大変だな、と。
 

 『創世記』の第一~四章を読んで、最も印象深かったのは三章八「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた」である。僕には難しいこと(聖書の解釈)は分からない。ただアダムとエバが風の中で聞いたという神の足音を、僕も一度でいいから聞いてみたい。
 自然が発する音(波音や雷鳴など)ほど素晴らしい音は他にない、と僕は思っているけれど、神様の発せられる音ならば、それは自然の発するどんな音よりも、きっと素晴らしいのだろう。
 無論、一番は神の声を聞きたい(だから『聖書』を読んでいる)。

Vol.95 ブルトマン著「古代ギリシアおよびキリスト教の自由の概念」を読んで


  『ブルトマン著作集14』神学論文集4(新教出版社)に収録されている論文の内、過日(3日)の午前中、「古代ギリシアおよびキリスト教の自由の概念」を読んだ。
 以下に挙げる2つのことを自分なりに理解したつもり。律法についても書かれていたのだが、半分くらいしか理解できなかったので、それはここに記さない。

 はじめに罪について。
 「『新約聖書』で「罪」を意味するギリシア語は、本来は射そこなうこと、的の射そこないの意味である。その意味は(後略・65ページ引用)」。

 次に自由について。
 パウロの自由については具体例として、「コリント人への第一の手紙」(三・二二と六・一二)が挙げられていた(本書66ページ)。
 さらにブルトマンがパウロを通じて、僕に教えてくれた自由とは、常に相対的なものであり、完全な自由であるためには、人は自分の過去からも自由であらねばならない、ということ。そして、人が自分自身から自由にする力、すなわち、過去からの解放はキリストの内にあって、恩寵が古い人間の死であり、新しい人間の覚醒が復活である。言い換えると、恩寵(神の恵み)を信じて、自己を開く者には、(キリスト教の)自由が贈られる(本書67~68ページ)。
 

Vol.94 ブルトマン著「ギリシア思想とキリスト教における歴史理解」を読んで


 『ブルトマン著作集14』神学論文集4(新教出版社)に収録されている論文の内、過日(先月の30日)、「ギリシア思想とキリスト教における歴史理解」を読んだ。
 

 ブルトマンの歴史理解の方法(観点)が以下のように記されている。
 「歴史の意味への問いは、全体史の意味への問いとして答えることはできない。われわれは歴史の外に立って、歴史を全体として見渡すことはできないからである。歴史の意味はむしろつねに現在にある。人間はそのつど問われている責任を受け止めることにおいて、歴史の意味を受けとめる(本書133ページ引用)」。
 僕はただ単純に歴史の意味は過去から学ぶことだと思っていたが、それだけではなかった。歴史とは単なる過去の出来事(人類の歴史)ではなくて、そのつど現在であると知った。
 また、本論の中では『ダニエル書』が取り上げられていた。

 以下は余談。
 昨日(2日)の午後は長谷川公茂先生に随行して、笠松町の中央公民館へ行き、長谷川先生の講演「円空の生涯と笠松」を聴きました。
 

Vol.93 ブルトマン著「クリスマスが持つ意味」と「『哲学的神学』の問題によせて」を読んで


 『ブルトマン著作集14』神学論文集4(新教出版社)に収録されている論文の内、過日(先月の30日)、「クリスマスが持つ意味」と「『哲学的神学』の問題によせて」を読んだ。

 「クリスマスが持つ意味」について。
 アンドレアス・グリフィウスの詩の一節が引用されていた。

  私のものでない、私から時をうばった年月は、
  私のものではない、ひょっとしたらくるかもしれない年月は。
  瞬間こそ私のもの、そして瞬間に心をとめるなら、
  年と永遠を創造された方は私のものである。

 僕は詩があまり好きではないことから、恥ずかしながら、アンドレアス・グリフィウスの詩を今回、初めて読んだ。ブルトマンの教養は凄いと、いつも感心させられる。
 

 「『哲学的神学』の問題によせて」について。
 今までの更新でも何度となく書いてきたけれど、ここでも僕は人間について、ブルトマンに教えられた。
 「いったい、実存とは何であろうか。人間存在が『実存』として特徴づけられるのは、人間がその存在を自己のものとして引き受けねばならないからであり、またそれは人間に、『いかに存在するか』としてゆだねられているからであり、それは時間的であり、歴史的であり、その過去からその将来に向かって、過去と未来に対する決断において生起するからである(本書136ページ引用)」。
 上の引用箇所を読んだ際、僕は以前に読んだブルトマンの論文に「神を考えることは人間(自分自身)を考えることだ」という内容があったことを思い出した(ブログをさかのぼって調べたら、Vol.53で取り上げた「神を語ることは何を意味するのか」であることが分かったので記しておく)。
 神学はもちろん神(この場合、イエスや『聖書』をはじめとするキリスト教全般)について考えるのだろうが、ことブルトマンに限っては、それを突き詰めると、人間を考えていて、であればこそ、僕はブルトマンが好きなのかもしれない、と気がついた。

Vol.92 ブルトマン著「イエス・キリストと神話論」は非神話化のすすめ


 『ブルトマン著作集14』神学論文集4(新教出版社)に収録されている論文の内、今日は「イエス・キリストと神話論」を読んだ。
 まず「難しい」の一言。途中まで読んでいて、凄く興奮させられた。とりわけ三の「キリストの使信と現代の世界観」(本書200~207ページ)を面白く読んだ。が、さらに読み進むうちに理解に苦しむ(分からない)箇所もあった。
 訳者のあとがきには、講義録や講演録としてまとめられ、英語版で出版された後、日本でも『キリスト教と神話』(新教出版社)として、いち速く紹介された。「全体として、きわめてゆきとどいた、いわば『非神話化のすすめ』ともいうべき内容となっている」とのこと。
 

 ところで、ブルトマンが唱える「非神話化」を100パーセント完全に理解しているのは、当の本人だけではないだろうか。果たして研究者や翻訳者はどうだろうか。『新約聖書』の具体的な箇所一つずつを取り上げて、「非神話化」として解釈するとなった場合、ブルトマンと他の研究者では、異なる釈義(結論)が出るのではないか。
 率直な感想を書いてみた。