Vol.69 『ルカによる福音書』を読んで


 読後の感想を一言で表せば、素直に感動した。
 とりわけ第二二章の「主の晩餐」とユダの裏切りから、第二三章のイエスの死を経て、第二四章のエマオで姿を現すといったストーリーの運び方に盛り上がりを感じつつ、最後にイエスは「み姿が見えなくなった」り、「『やすかれ』と言われた」り、「まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。(中略)。こう言って、手と足とをお見せになった」り、「「焼いた魚の一きれをさしあげると(中略)、みんなの前で食べられた」り、「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」と言われた後、「祝福しておられるうちに、彼らを離れて」昇天する。読み終えた際に、僕は気持ちの良さを覚えた。
 

 本文中、印象に残ったエピソードは、神殿での少年イエス(二章)、イエスの服に触れる女(八章)、マルタとマリア(一〇章)で、併せて、税や金持ちについても。その他には、イエスが癒やすことから、大勢の病に苦しむ人たち(らい病、中風、水腫など)が出てくることに否応なく気付かされた。
 『ルカによる福音書』は『使徒行伝』へ続くとのこと。ずいぶん前に『使徒行伝』の第五章までを読んで、そのままになってしまったことから、改めて一から読み直したい。

Vol.68 『ガラテヤ人の手紙』を読んで


 過日(23日)の午後、『ガラテヤ人の手紙』を読みました。

 第一章
 六 あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。

 呼びかけの口調がいっそう厳しいものに感じた。読了したら、全体を通じて、ますますそのように感じた。なればこそ、以下の言葉が僕の心にストレートに響いた。

 第三章
 四 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。

 まるで僕を戒めるかのような、力強い言葉だ。あの経験をむだにするなよ、と。
 

 『聖書』を読んで、励まされる言葉を挙げるとしたら、やはり一番は「世に勝つ(世に勝っている)」であろう。

 『ヨハネによる福音書』
 第一六章
 三三 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

 『ヨハネの第一の手紙』
 第五章
 四 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。

 『ガラテヤ人の手紙』に記された短い言葉は「世に勝つ(世に勝っている)」と同様、僕を力強く励ましてくれた。
 大事なことを忘れずに書いておくと、『ガラテヤ人の手紙』は、ブルトマンの論文(「アダムよ、あなたはどこにいるのか」等)では、とりわけ三章が取り上げられていた。

Vol.67 『ペテロの第一の手紙』を読んで


 『ペテロの第一の手紙』の中で、僕が最も印象深いのは第二章第一一節であり、僕にとって、『ペテロの第一の手紙』は第二章第一一節に収斂されると言っても過言ではない。

 第二章
 一一 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
 

 人は、そして、僕は何者かと言えば、この世で、今、生きているうちは「旅人であり寄留者である」と。そして、いつか旅は終わり、あるいは滞在が終わって、帰って行く(死ぬ)のだ、と。
 旅の途中、滞在者として、いかに行動する(生きる)のかについても、続けて記されている。

 一六 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。

 話題が前後するけれども、『ペテロの第一の手紙』を読んで、僕がハッとさせられたのは、いつか別の場所で書いたこと(『ペテロの第二の手紙』2・13、3・14)のある「きず」と「しみ」という表現が、ここにも出てきたことだ。

 第一章
 一九 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。

 『新約聖書』には、全部で21の手紙がしたためられているが、『ペテロの第一の手紙』はまるで僕宛てに差し出されたのではないかと、そう思えてならない。まだまだ書きたいことは山ほどあるのだが、それは止めておくことにする。

Vol.66 『ハガイ書』とブルトマン著「預言と成就」(1950年)を読んで


 写真は『ハガイ書』の第二章第四節です。
 

 『ハガイ書』
 第二章
 四 主は言われる、ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。
 五 これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに、約束した言葉である。わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。
 六 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。
 七 わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。

 『ハガイ書』の内容はごく短いのだが、それに反比例するようにして、圧倒された。とりわけ、第二章の四節は「勇気を出せ」と、3度も呼びかけているうえに、「働け」ともある。次の五節には、「恐れるな」とある。続けて、六節と七節では「震う」が繰り返される。
 また、六節はブルトマンによれば、『ヘブル人の手紙』第一二章二六節に対する預言と成就の関係にある。

 『ヘブル人の手紙』
 一二章
 二六 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
 二七 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。

 それにしても、面白いなと感じるのは、時間の経過(の順序)が逆ということ。後に書かれた『新約聖書』で成就されることよって、前に書かれた『旧約聖書』が預言となるのだ。『新約聖書』にとっては、『旧約聖書』は救世主が到来するという預言の書として扱われている。
 確かに今現在があるのは、過去があるからだが、僕は過去が今現在に及ぼすことについて、考えさせられた。過去に縛られる必要はない、と。『聖書』とブルトマンの著作は、いろんな事を気付かせ、教えてくれる。

Vol.65 続 荒子観音寺の円空仏の新しい小冊子(パンフレット)


 今日の午前中は長谷川公茂先生とお会いして、楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
 下の写真は長谷川公茂先生とご一緒したモーニングサービスのサンドウィッチセットです。
 

 少し前の更新(Vol.60)で、荒子観音寺の円空仏の新しい小冊子(パンフレット)について書きましたが、その続き。
 長谷川公茂先生の上梓した小冊子ということで、例によって、下の写真にあるようにサインを頂戴しました。
 

Vol.64 ブルトマン著「世界教会協議会のキリスト論的信仰告白」(1951/2年)を読んで


 ブルトマンは「世界教会協議会のキリスト論的信仰告白」の冒頭で、次のように問い、答えている。

 「世界教会協議会は、イエス・キリストを神として、また救済者として承認する諸教会から成り立っている」。さて、この信仰告白の表現が新約聖書に対応しているかどうかを吟味するという課題が、私に出された。私はこの問いに即座に、次のごとく、まったく短く答えることができる。すなわち、私にはそれは分からないと。(本書324ページ)
 

 ブルトマンの言葉を受けて、「世界教会協議会のキリスト論的信仰告白」については、本論の内容をまとめたりせず、僕が最も強く印象に残った箇所を取り上げたい。

 人間はそもそも、存在の意味を、つまり、歴史や文化の意味を問われているのではない。この問いは初めから不可能な、答えることのできない問いである。なぜならば、この問いの答えは、答えるものが、人間の存在、歴史、世界の外部にいることを確かに前提しているからである。人間はただ瞬間の意味を問われており、(私にはそう思われるのであるが)、また、このことは瞬間の要求を問われていることを意味する。(本書342ページ)

 学生時代、芥川賞の受賞作である『僕って何』を読んだことがある。自分とは何かといった、いわゆる自己のアイデンティティ(同一性)について、当時、僕なりに足りない頭で考えたけれど、「自分は自分だ」という以外に、これといった結論が見いだせなかった。
 しかしながら、ブルトマンの上に挙げた言葉が僕に答えを与えてくれた。それは、すなわち「人間の存在の意味は初めから答えることのできない問いであり、また、その存在はその時、その瞬間である」と。未熟な僕に思うところがあって、知りたかったことを、いつもながら、ブルトマンは教えてくれるのだ。

 以下は余談。
 昨日は荒子観音寺にて、施餓鬼会のお手伝いをしました。

Vol.63 ブルトマン著「恩寵と自由」(1948年)を読んで


 冒頭、「ピリピ二・一二以下のパウロの言葉に刺激されて」とあるように、本論を読んで、僕はブルトマンが筆者であるパウロの姿勢を問うている、と感じた。そして、一度読んだだけでは難し過ぎて、内容を確実には理解できず、二度、三度と読み返した。今もはっきりとは分からない箇所がある。だから、うっかりとまでは言わないけれど、いつものようには書けないし、書けそうもない。
 冒頭と文末には、『ピリピ人への手紙』第二章一二~一三節が引用されている。

 二章
 一二
 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
 一三
 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
 

Vol.62 『エレミヤ書』第三三~五二章を読んで


 前回からの更新(Vol.61)の続き。

 三三章
 三二
 天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない。そのようにわたしは、しもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビびとである祭司の数を増そう」。

 「天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない」を読んで感じたのは、隔世の感があるということ。都市部では、プラネタリウムにでも足を運ばなければ、夜空を見上げても、星は数えるほどしか目にすることはできない。全国の砂浜では、浸食が深刻な問題となっている。

 四〇章
 四
 見よ、わたしはきょう、あなたの手の鎖を解いてあなたを釈放する。もしあなたがわたしと一緒にバビロンへ行くのが良いと思われるなら、おいでなさい。わたしは、じゅうぶんあなたの世話をします。もしあなたがわたしと一緒にバビロンには行きたくないなら、行かなくてもよろしい。見よ、この地はみなあなたの前にあります、あなたが良いと思い、正しいと思う所に行きなさい。

 直後の五節にも、「あなたが正しいと思う所へ行きなさい」という表現が出てくる。ブルトマンの釈義によれば、『聖書』の世においては、人は誰でも(僕も)旅人、寄留者である。さすれば、人が生まれてから死ぬまでの歩みは、すなわち、正しいと思う所へ行く、ということなのだ、と。

 五一章
 六三
 あなたがこの巻物を読み終ったならば、これに石をむすびつけてユフラテ川の中に投げこみ、
 六四
 そして言いなさい、『バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない。わたしがこれに災を下すからである』と」。ここまではエレミヤの言葉である。

 僕個人の感覚なのだが、旧約聖書は新約聖書と比較して、どれも読みづらい。『エレミヤ書』はこれまでに僕が読んだ中で、最も長い(章数の多い)。読み通せた理由を考えると、エレミヤ書はその内容もさることながら、筆者によるところが大きいように感じた。
 最後に、エレミヤが「ミヅパ」という地名の場所を訪れるのだが、自分なりに調べてみたけれど、それがどこだか分からなかった(もしもこれを読んで『聖書』の場所に詳しい人がいたら、ぜひともご教示ください)。
 

Vol.61 『エレミヤ書』第一~三二章を読んで


 今月上旬(4日~7日)に該当の章を読みました。
 例によって、僕の心に響いた言葉を挙げておきたい。備忘録として。

 二章
 三二
 おとめはその飾り物を忘れることができようか。
 花嫁はその帯を忘れることができようか。
 ところが、わたしの民の、
 わたしを忘れた日は数えがたい。
 三三
 あなたは恋人を尋ねて、
 いかにも巧みにその方に足を向ける。
 それゆえ悪い女さえ、あなたの道を学んだ。

 六章
 一九
 地よ、聞け。見よ、わたしはこの民に災をくだす。
 それは彼らのたくらみの実である。
 彼らがわたしの言葉に気をつけず、
 わたしのおきてを捨てたからである。

 一四章
 一九
 あなたはまったくユダを捨てられたのですか。
 あなたの心はシオンをきらわれるのですか。
 あなたはわれわれを撃ったのに、どうしていやしてはくださらないのですか。
 われわれは平安を望んだが、良い事はこなかった。
 いやされる時を望んだが、かえって恐怖が来た。

 一五章
 五
 エルサレムよ、だれがあなたをあわれむであろうか。
 だれがあなたのために嘆くであろうか。
 だれがふり返って、あなたの安否を問うであろうか。

 二三章
 二四
 主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。

 三一章
 三一
 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
 

 実際には、上に挙げた箇所の3倍くらいあるのだが、割愛した。
 『エレミヤ書』といえば、第三一章三一節から三四節で、契約について記されており、それが取り上げられる。
 三三章以下と『エレミヤ書』を読んだ感想については、次回の更新で。

Vol.60 荒子観音寺の円空仏の新しい小冊子(パンフレット)


 3月末の第一声から、紆余曲折を経て、先週末、無事に上梓しました。
 下の写真が小冊子の表紙で、内容は10年先、20年先、30年先を見据えたものを目指しました。
 

 舞台裏は以前の更新(Vol.25、Vol.27)でも書きましたが、長谷川公茂先生の責任編集であれば、伝家の宝刀か、あるいはテレビドラマ「水戸黄門」の印籠と同じ、と言っても過言ではないはず。
 小冊子はオールカラーページで、頒布価格が1000円。実際に手に取っていただければ、分かるのですが、かなり安い(お得)と。もちろん、長谷川先生の解説付き。
 陰ながら、お手伝いができた僕は円空さんの勉強ができて、実に幸せでした(これは今だから言えるセリフで、一時はどうなることやら、不安でいっぱいでしたが、円空さんの心を伝える長谷川公茂先生をお手伝いするのは僕の役目だ、と)。 

 以下は余談。
 昨今、『聖書』を読んでいる僕は不意に『ヨハネによる福音書』の第16章第21節を思い出しました。
 「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。」

Vol.59 ブルトマン著「アダムよ、あなたはどこにいるのか」(1948年)を読んで


 前回の更新(Vol.58)からの続きで、昨日読んだ『ブルトマン著作集 12 神学論文集 2』に収録されている論文「アダムよ、あなたはどこにいるのか」について、以下の引用は僕の備忘録である。

 「旧約聖書の文献には、(実際、他のオリエントの文献と同じように)人間の運命や人間の苦悩についての非常に多くの言葉が鳴り響いており」

 「他のオリエント、あるいはギリシアの文学に見いだされる。人間が、なんらかの意味や利点を認識することができないで、身をさらされている宿命の渦巻く変遷に対する嘆きは、つねに、くりかえしてひびきわたる。個々の声の固有なるひびきは、全体の合唱のなかで消えうせていく。あたかも波の特別な形が、大海の一様なうねりのなかに消えうせるように」

 「歴史のなかで人間は、その決断と運命とによって、自己の独自性を獲得する。それゆえに、人間の固有の生は、個別的なもの、そのつどの出会いの領域において、生ずる。そのつどの決断(それが行動への決断であろうと、運命にむかって自己を開くか、閉じるかの意思であろうと)」

 「さらにまた、人間は、この世では、旅人、寄留者として歩んでいるのであり、人間の生が、そこで演じられる歴史的な出会いは、どのひとつをとってみても」
 

 上に挙げた引用は僕が「アダムよ、あなたはどこにいるのか」を読んで、テキストに線を引いた箇所である(やっぱりブルトマンの聖書解釈は凄いな、と。読んで、興奮させられる)。
 『聖書』はずっと昔に書かれたはずなのに、時空を超越して、現代に生きる人たちへ、そして、僕に向かって、こうして呼びかける。「あなたはどこにいるのか」と。

 以下は余談。
 今朝は午前3時過ぎに起床。今、これを書いている午前4時過ぎ、外では鳥たちの鳴き声がうるさいくらいだ。窓から見ると、東の空から光が差してきて、木々や電柱、アンテナが赤く染まっている。

Vol.58 「ブルトマン著作集 12 神学論文集 2」を読みました


 今日は『ブルトマン著作集 12 神学論文集 2』(新教出版社)に収録されている2つの論文「律法の終りとしてのキリスト」と「アダムよ、あなたはどこにいるのか」を読みました。
 どちらかと言えば、「律法の終りとしてのキリスト」について、大いに期待を寄せつつ、読み始めたまでは良かったのですが、内容がいささか難しくて、理解度は6~7割といったところでしょうか。それでもブルトマンは大切なこと(肝心なこと)は繰り返し述べることから、僕も何度でも読み返したいと思います。
 反対に、「アダムよ、あなたはどこにいるのか」については、ざっとページをめくった際、『聖書』の内容に逐一、立ち返ることが少なくて、残念に思っていました。しかしながら、結果的に僕の知りたかったことが、(僕が今まで読んだ他の論文と少し違って)情緒的な表現で記されていたことから、読後の満足感は大きかったです。
 

 以下は余談。
 今夜は熱い風呂に入って、気分がリフレッシュできました。

Vol.57 日本キリスト教団出版局と新教出版社とキリスト新聞社


 『聖書』を軸にブルトマンの著作集をはじめとするキリスト教に関係する本を数多く読むようになった。中でも、日本キリスト教団出版局と新教出版社の本に目を通している(後で気が付いたら、キリスト新聞社の本も)。
 クリスチャンではない人で、これだけ多くのキリスト教に関係する本を読んでいるのは、もしかしたら僕だけかもしれない。何だか神学部の学生になったみたいだ。
 以前お世話になった古今書院といい、素晴らしい本を作っているところが、まだいくつもあることを再認識した次第。出版不況の原因の一つは、いわゆる大手と呼ばれる出版社や流通(日本出版販売とトーハン)、新聞等の書評に問題があるのではないのかと思ってしまう。
 下の写真は新教出版社の出版通信で、今から21年前と、こんなに古いのは当の新教出版社にも、ひょっとしたら残っていないのではないか。
 

 1997年と言えば、僕は28歳で、前年に自動二輪の免許を取得して、バイクであちらこちらへと足を運ぶようになった頃だ。

Vol.56 村田和人&HIS FRIENDS 「ド・ピーカン」


 姉妹ブログの「東海・旅の足跡 2」でも書きましたが、昨日のお昼休みは先月末に発売されていた村田和人&HIS FRIENDS のアルバム「ド・ピーカン」を購入。
 

 村田さんがライブMCで、「次のアルバムはね~」と言って、その構想(プラン)を何度も口にされていました。これほど発売が待ち遠しかったアルバムは他にないし、これほど皆の想いの詰まったアルバムは他にないのでは、と。
 陰ながら、村田さんのファンのひとりとして、「ド・ピーカン」を届けてくださった HIS FRIENDS の皆様へ深い感謝の言葉を記したい。ありがとうございます。
 今年の夏も村田さんの音楽と一緒に過ごせて、僕は幸せです。
 と、ここまで書いていながら、昨日からいろいろあって、まだ聴けてないのが悲しい。

Vol.55 久しぶりの讃美歌と阿部昭の短編小説「桃」


 今日の午前中は名古屋市昭和区にある某所へ足を運びました。
 下の写真は『讃美歌21』449「千歳の岩よ」です。
 

 讃美歌を口ずさんだのは、小学生(5年生もしくは6年生)か、あるいは中学生(1年生)以来で、もうこうしてはっきりと思い出せないくらい、ずいぶん久しぶりのことでした。
 今更ながら、よくよく考えてみたら、僕は仏教よりもキリスト教に先に触れていたのだ。そのことに今日、改めて気がつきました。
 どうして約30数年の長い間、気がつかなかったのだろうと、実に不思議に思うくらいです。
 が、今、その理由は自分でも何となく分かっています。
 それは僕の人生が二十歳前から文字どおり一変したことに関係があり、当時の自分(子どもの頃)を思い出したくないということ。
 ちょうどその頃(二十歳前)、偶然か、それとも必然か、仏教との関係ができたことにも重なっています。ちなみにそれを僕は「縁」という言葉で表現するのが大嫌いです。
 文末になってしまいましたが、T様をはじめとする皆様へ温かく迎えていただいたことに感謝の言葉を記したいと思います。

 以下は余談。
 上記の内容に関して、阿部昭の短編小説「桃」を思い出しました。僕も短編小説作家と同じような体験をするとは思いも寄りませんでした。

Vol.54 ブルトマン著『ヨハネの手紙』(日本基督教団出版局)を読んで


 少し時間が経ってしまい、ブルトマン著、川端純四郎訳『ヨハネの手紙』(日本基督教団出版局)を読んだ際の感想を上手に書けるかどうか分からない。
 最初に本書を読んだきっかけについて触れておくと、ブルトマン著『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)を読んだ際、巻末にあった目録に本書を見つけた。「ブルトマン最後の作品であり、聖書研究の終着点」と紹介されていた。
 

 『ヨハネの第一の手紙』
 1・1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―
 1・2 このいのち(言)が現れたので、この永遠のいのち(イエス)をわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのち(イエス)は、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―
 1・3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。

 上に記した『ヨハネの第一の手紙』の冒頭を整理すると、「いのちの言(ロゴス)について、わたしたちはあなたがたに告げ知らせる。それは初めにあったものであり~」となる。文章がねじれていて、一読して分かりづらい。けれども、ブルトマンの釈義によって、僕なりに理解することができた。ロゴスを告げ知らせ、イエスと交わる、ということを。
 さらに続けて、

 1・5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
 1・6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

 光とは自分の道を見い出すために必要としている明るみ。信仰者は歩いている存在で、常に途上である、ということ。

 さて、こうした僕なりの理解を逐一、記述し続けて行くことは、諸々の事情により、止めておく。
 ブルトマンの著作は、いずれも読んでいる最中が「しんどい」けれど、楽しい。そして、著作の読後、論じられている素材(今回はヨハネの第一、第二、第三の手紙の3つ)を読み返すと、それ(素材)がさらによく分かるということ。
 後になって言えることではあるけれども、ブルトマンの著作である『ヨハネの手紙』を読みたいから、聖書の『ヨハネの第一の手紙』、『ヨハネの第二の手紙』、『ヨハネの第三の手紙』を読んだと言っても過言ではない。こう記したら、本書に対する僕の感動が伝わるだろうか。

 以下は余談。
 今日の午前中は長谷川公茂先生とお会いして、円空さんの打ち合わせでした。

Vol.53 続 ブルトマン著作集 11 神学論文集1(新教出版社)を読んで


 前回の更新(Vol.52)からの続きで、ブルトマン著作集 11神学論文集1(新教出版社)に収録されている2つの論文「神を語ることは何を意味するのか」(1925年)と「『自然神学』の問題」(未公刊)を読んで、それらに対する僕なりのまとめである。
 はじめに「神を語ることは何を意味するのか」について。

 神に関して語っても意味がないのは、愛に関して語ることに意味がないのと同じである。実際、愛に関する発言がそれ自体愛する行為になるのでなければ、愛に関しても語ることはできない。人は神を語ろうとすれば、自己自身を語らざるを得ない。
 神をいつ語るのかは、我々がそうしなければならない時にであり、その時(必然)とは、自由な行為で、服従となる。なぜなら、必然は神から語られるものであり、我々には委ねられておらず、必然が現実となるかについても、我々は信じるしかない(信仰)。
 信仰は神の言葉と行為への応答であり、我々(自分)に向けられた神の言葉と行為を語ることだけが、神を語ることになる。

 「神を語ることは何を意味するのか」に関しては、自分なりに、浅はかながらも、理解できたのではないかという希望を持っている。
 ブルトマンは1884年生まれだから、41歳の時に発表した論文である。
 

 次に「『自然神学』の問題」について。
 その内容は大きく3つに分かれており、1については、以下のとおり。

 キリスト教の宣教が人間に出会って理解されうるという事実は、人間がそれについての「前理解」を持っているからで、理解するものとされるものは、はじめから関係し合っているような「生連関」を前提とする。

 2と3については、諸々の事情により、省略する。1と同様、ちゃんと読み込んだという証拠として、3で見つけた誤植を(347ページ)。
 

 昨日から『エレミヤ書』を読み始めたことで、残りの論文「カール・バルト著『死人の復活』」については、もう少し先になるだろう。

Vol.52 ブルトマン著作集 11 神学論文集1(新教出版社)を読んで


 ブルトマン著、土屋博訳『ブルトマン著作集11』「神学論文集1」(新教出版社)に収録されている論文を読みました。
 収録されている論文の内、「ヨハネ福音書の終末論」(1928)については、既に姉妹ブログである「東海・旅の足跡 2」で触れたことから、それ以後に読んだ論文について、僕なりに書き残しておきたいと思います。
 

 本書に収録されている15編の論文の内、僕が目を通した5編の順番を整理しておくと、「ヨハネ福音書の終末論」が最も早く、次に「神を語ることは何を意味するのか」で、「カール・バルト著『死人の復活』」を途中まで読み、続けて「新約聖書のキリスト論」を、最後に「『自然神学』の問題」を読み終えました。
 「カール・バルト著『死人の復活』」については、素材となっている『コリント人への第一の手紙」』を僕がまだ読み終えていないことから、「途中まで」となっています。また、収録されている15編の論文の内、目を通していない10編については、僕の興味の範囲外にあることから、いつものように読み込むのではなく、参考程度にと思います。
 前置きが長くなってしまいました。
 

 「新約聖書のキリスト論」(未公刊)について。
 興味の赴くまま、論文の途中(298ページ)から読み始めて、文末(301ページ)まで目を通すと、冒頭(279ページ)から読み、再び途中(297ページ)までに戻る、といった読み方をした。
 読み始めた途中の箇所は次のように書かれていた。

 ヨハネにとってキリスト論が宣教・語りかけであることは、ヨハネが(神話論的表現を採用して)イエスをロゴスすなわち神の言葉として表すことのうちにすでに示されている。イエスは、言葉とならぶものではなく、また、そのようなものを意味するのでもない。彼は言葉である。

 さて、本題へと進みたい。
 本稿の内容は、1、イエスの人となり。2、キリスト祭儀。3、イエス・キリストへの信仰となっている。
 以下は3のイエス・キリストへの信仰を読んだ僕なりのまとめである。

 キリスト論とは、宣教であり、語りかけである。教説(キリストの復活)が宣教されるときには、聴き手は語りかけられ、これを信じるかどうか。
 パウロのキリスト論は、(キリストの起こした)神の救済行為の宣教で、神の言葉である。その言葉に対応するのが信仰であり、宣教に対応するのが信仰者の新しい理解である。キリストの恵みを認識することがキリストを認識すること。
 パウロについて述べられたことは、ヨハネのキリスト論の解釈にも当てはまる。ヨハネはパウロ以上にイエスと神の統一性を強調する。

 尚、訳者あとがきに記されている「最後の決定的な時である今、イエスがそれを語るという事実が決定的なのである」に該当する本稿の部分が僕には完全には理解できなかった。
 残り3編の論文については、次回の更新へ続きます。

 以下は余談。
 今夕は長谷川公茂先生とお会いして、円空さんの打ち合わせでした。

Vol.51 『ローマ人への手紙』とブルトマンの2つの論文を読みました


 昨日は『聖書』の「ローマ人への手紙」を読んだ。読んでいる最中、ブルトマンならば、という視点が見えた。読後の感想としては、簡潔に「凄い」とだけ記しておく。
 例によって、僕の心に響いた言葉(口語訳)を挙げておきたい。

 2・11 なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。
 8・6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
 10・17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 12・19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 13・11 なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。
 15・15 しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。
 16・27 すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。
 

 続けて、ブルトマンの論文「ローマ人への手紙の挿入句」(『著作集8』聖書学論文集2)を読んだ。短いということもあって、今まで読んだ他のブルトマンの論文と比較すると、その内容がほぼ理解できた。嬉しい(ただし、後になって、取り上げる章が前後する内容に手間取った)。ブルトマンの著書『ヨハネの福音書』を読んだときの、ワクワクするような感じとは、また違うけれど、それに似た高揚感があった。
 

 今日の午前中は一昨日に途中まで読んでいたブルトマンの論文「ローマ人への手紙第七章とパウロの人間論」(『著作集8』聖書学論文集2)を再読した。途中までの理由は、本書(本稿)の7ページ以降の内容がそれまで(第7章第14節以下に描かれた分裂)と違い、全章を眺めることから、ひとまず横へ置いておいた。内容としては、なかなか手強く、理解できなかった箇所があるのも事実だ。
 

 ブルトマンは「ローマ人への手紙」に関する論文を他にも書いていることから、それを読むのが(苦痛を伴うだろうけれども)楽しみである。
 そして、今日の午後は妨害されたけれど、こうした難しい本を読むことができる幸せな環境に感謝と、それがこの先も続くようにと、そうした平安を僕は心の底から願っている。

Vol.50 BRAND NEW DAY / BRAND NEW SONG


 ブログの更新について、「東海・旅の足跡 2」から「Stay The Young」へ軸足を移すことにした。一番の理由として、こちらは誰も読んでおらず、思う存分、好きなことが書けるから。
 誰にも読まれない文章を書くのは、まるで日記を書くようで、何とも僕らしい。円空さんだって、自分の詠んだ和歌を『大般若経』の裏側にひっそりと貼りつけていた。
 ブログはいつしか日記代わりという役目を帯びてきたことから、これで正解なんだ、と。

 僕が大好きな村田和人さんの歌に「BRAND NEW DAY / BRAND NEW SONG」があって、その歌詞(作詞は山田稔明さん)は次のように始まっている。

 新しいカメラを買った 
 よく見えるほうの目でずっと
 ピントをあわせたまま
 コマ送りのパノラマ

 歌詞にあるように、僕も今まで使っていたカメラから、新しいカメラを使い始めることにした。
 シルバーボディのカメラが今まで使っていたカメラで、ゴールドボディのカメラが新しく使い始めたカメラです。
 


 歌詞と少しだけ違うのは、新しいカメラは買ったのではなく、昨年に長谷川公茂先生から頂戴したということ。
 文末になってしまいましたが、いつもお気遣いいただいている長谷川先生に感謝の言葉を記したいと思います。