Vol.216 続『ブルトマン著作集9』聖書学論文集3の2つの論文を読んで


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 以前の更新(Vol.208)にて、『ブルトマン著作集9』聖書学論文集3に収録された2つの論文を取り上げた。今回もそれと同じ形式で、『ブルトマン著作集9』聖書学論文集3に収録された2つの論文「イグナティオスとパウロ」と「使徒行伝の資料問題」について記したいと思う。
 はじめに「イグナティオスとパウロ」について(1日夕方に読む)。
 「イグナティオスとパウロ」に関しては、荒井献編『使徒教父文書』(講談社文芸文庫)に収録された『イグナティオスの手紙』を読み終えてから、と決めていた(むしろ、当然そうあるべきだろう)。
 『イグナティオスの手紙』の7つの書簡については、以前の更新(Vol.210)で取り上げたが、再掲しておくと、

  『イグナティオス・エペソ』第一~二一章
  『イグナティオス・マグネシア』第一~一五章
  『イグナティオス・トラレス』第一~一三章
  『イグナティオス・ローマ』第一~一〇章
  『イグナティオス・フィラデルフィア』第一~一一章
  『イグナティオス・スミルナ』第一~一三章
  『イグナティオス・ポリュカルポス』第一~八章

 となっており、その際には『イグナティオス・フィラデルフィア』について書き記した。
 

 ブルトマンによれば、イグナティオスは「パウロの足跡に従って」おり(『イグナティオス・エペソ』12;2)、「キリスト教信仰をひとつの実存的な姿勢として理解」している(52ページ)。また、「イグナティオスは、パウロと同様、古いものと新しいものとの対立を肉と霊との対立として特徴づけることができた。(中略)パウロとの大きな違いは、イグナティオスにとって肉とは第一義的には罪の領域ではなく、過ぎ去りゆくことの領域、死の領域だということである」(60~61ページ)。
 「イグナティオスとパウロ」において、ブルトマンは『イグナティオスの手紙』の中から『イグナティオス・エペソ』、『イグナティオス・マグネシア』、『イグナティオス・ローマ』を比較的多く引用していた。
 

 次に「使徒行伝の資料問題について」を取り上げる(8日夕方に読む)。
 最初に読み始めたときは、すごぶる退屈な印象を受けたが、読み進むうちに、終わり近くなって、俄然、面白く感じた。本論ではブルトマンによる二つの批判的な問いが提出されており、その二番目の問いに関するブルトマンの釈義(80~89ページ)に刺激を受けた。

 主要な問いは、一六章からの基礎に置かれている旅行記とこの「アンテオケ」資料との関係についての問いだ、と言えるであろう。(中略)パウロの旅行のひとりの同伴者あるいは複数の同伴者たちは、アンテオケ教会出身者であった、と推測することができよう。その場合、おそらく自分自身がアンテオケ出身者であったであろう著者は、教会の文書室で、「アンテオケ」資料も旅行記も利用することができたであろう(87ページ)。

 「使徒行伝の資料問題について」を読んでから、僕が『使徒行伝』を読み直したくなったのは言うまでもない。また、(ブルトマンの釈義による)新たな知識によって、以前とは違った視点で『使徒行伝』を読んだことも付け加えておく。

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