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早稲田柳右衛門については、瀬戸市の名誉市民で、瀬戸市民公園に銅像があることは知っていましたが、星合信令を通じて、さらにその名を目にする機会が増えたことから、どのような人物だったのかと興味を持ち、過日、小出種彦著『早稲田柳右衛門伝』(貿易之日本社)を読みました。
下の写真は目次です。
『瀬戸市史』を読むと、早稲田氏の名前が何度も出てきますが、それらがほとんど本書を元に書かれていることから、彼を知る資料が少ないことに気付かされました。
早稲田柳右衛門 年譜
1900(明治33)年、小牧市生まれ。幼名、詮道(のりみち)。
1917(大正6)年、小牧尋常高等小学校卒業。
1921(大正10)年、幼名の詮道から柳右衛門に変更(襲名)。
1924(大正13)年、小牧市役場、書記に任命(税務係)の後、社会教育主事に登用。
1925(大正14)年、政治運動で借財、勘当される。小牧町役場を退職。
1926(大正15)年、瀬戸市へ移住。
1929(昭和4)年、瀬戸市会議員選挙で初当選。
1931(昭和6)年、結婚。
1946(昭和21)年、第22回衆議院議員総選挙で初当選。
1975(昭和50)年、政界を引退。勲一等旭日大綬章を受章。
1978(昭和53)年、瀬戸市名誉市民、小牧市名誉市民に推挙される。
1984(昭和59)年、死去。
「五十年にわたる先生の政治生活は多岐多彩で、愛知県下はもとより、中部圏各地、中央など、どこへ行っても手の跡、足の跡が残っている。この道も、この川も、この学校も、この海岸も、この都市計画も、この耕地整理も、至るところの治山治水も、福祉施設も、先生の努力によって結実したものであり、地元民の記憶にとどまっているのに驚く(中略)。しかし、何んといっても、政治家として一番油の乗り切っていたのは、自民党愛知県連会長時代だったと思う。十三年余の長い間、愛知県地方政治の頂点に立って縦横に腕をふるわれたことは、いまなお我々の記憶に新しい」(序文、吉村豊より抜粋)。
本書の序文に寄せられた吉村氏の言葉に嘘偽りはないのだろう。しかしながら、令和の時代になっては、忘れられてしまっていることがあまりに多く、先人に対する敬意も失われつつあるのが、今の日本社会である。
下の写真は早稲田柳右衛門先生です。
本書で何度か引用されている早稲田先生の言葉があって、それは「学歴なく、財力なく、門閥なく」というフレーズ。裸一貫の政治家として、まさしく彼の人柄を表わしている。昨今は世襲議員が多いことから、彼らとは正反対である早稲田先生とお会いしてみたかった、というのが正直な僕の感想です。
惜しむらくは僕が知りたかった早稲田柳右衛門先生と星合信令氏がいかにして懇意となったかという契機については、本書を読んでも分かりませんでした。